「アニキ、ラブレターもらってきたよ」
『?』
「これ、はい。」(と、手渡す手紙)
『え、やったな。とうとう彼女が出来そうか、おまえにも』
「いや、違うって… コレ、アニキにって渡されたの!」
『へっ (汗)、お、オレに?』
「休んでるから、心配なんじゃない? 見舞を口実にして手紙書いたんだよ。モテていいねー、アニキは!」
若き中学生の頃の話。
インフルエンザにかかって何日か学校を休んでいた時。
弟がもらって来た手紙。赤い小さな封筒に綺麗に折りたたんで入れてあった。その小さな手紙は便箋3枚にびっしりと字が書いてあった。
思い出すのも恥ずかしいのだけれども、もらった手紙にはそれとなく好意を持っている事と、自分がクラスの中で座っている席をあいまいに(でも分かってしまうように)伝えようとしていた。
そして最後の文で、はやく回復して学校で顔を見るのを楽しみにしている、としめくくってあった。
丁寧に時間をかけて書いたことがはっきりと分かるような文字。
内容にももちろん驚いたけれども、「きれいな字を書くんだな…」とちょっと感動したのを覚えている。
同じ学校に通ってる弟に手渡ししたのだそうだ(その時点で誰が渡したのかって、はっきり分かってしまうのに…なあ)。
もう卒業もせまった時期の冬だった。
おしせまる時間と切ない思いの間で揺れ動きながら、書いた手紙。
結局、もらった子には何となく顔をむけて会いずらく(もともとあまり話をした事がなかった)、手紙のお礼すらしていない。
そのまま卒業。
恥ずかしくて、何も返すことが出来なかった。
けれども、その手紙をどんな気持ちで書いたのか、一生懸命に筆をはしらせるその子の姿だけは頭の中でイメージ出来た。
17世紀オランダ、フェルメールの『恋文』
ラブレター、恋文は何世紀も前からありました。
日本では平安時代に句に表した恋の想いを相手に届けました。
そして、17世紀オランダでは、あのフェルメールが手紙を題材に多くの傑作を描きました。
東京では驚異の68万人を動員した、大人気の『フェルメール展』が次は大阪に巡回します。
▶︎公式サイトはこちら
▶︎別記事 『なんでそんなに混むの?フェルメール展』
その大阪展だけに出展される作品がひとつあります。
アムステルダム国立美術館所蔵、その名も『恋文』。
(写真は以前現地で鑑賞時に撮影したものです)
今、まさに『恋文』が届けられた瞬間を描いたこの作品は、フェルメール後期の傑作。
侍女が手紙を渡すのは当時広く弾かれていた、撥弦楽器リュートを持った女主人。
手前のカーテンによって鑑賞者はプライベートな場面を覗き込んでいるように感じてしまいます。
これは今でいうトリックアートのような技法、トロン・プイユと呼ばれています。
実は、オランダ絵画に詳しい人はすぐに彼女が受け取った手紙の内容が推察できてしまいます。
なぜなら、フェルメールに代表される17世紀オランダ絵画には「暗示」がふんだんに使われているからです。
受け取った手紙が恋文であることを示すのは、愛の象徴であるリュート。
手前に見える脱ぎっぱなしのスリッパはセックスを象徴。
部屋入り口に立てかけられたほうきは家庭生活の象徴、なのに隅に置いてあるのは家事に関心がなく、意識が手紙に行っている事を暗に示しています。
恋文… ラブレター。
今ならさしずめ、LINE で「好き」とか伝えるのだろうか?
SNS、LINE、FAACEBOOK、TWITTER、INSTAGLAM … ありとあらゆるコミュニケーションツールが「キーボード」に並んだ文字を手で打つことでメッセージがつむぎだされる今日。
そもそも、この文章ですら、BLOGという形で電子化されたもの。
しかし、フェルメールの生きた時代は17世紀オランダ。
僕の中学生時代と17世紀を比較しても、「手紙」というツールに関しては400年の時間をはさんでいても大きくかわるところはない。
自分の想いをいかに文章にしようか、頭の中を文字が行ったり来たり。
気持ちを相手に最大限伝わるようにと何度も書き直す。
ひと文字、ひと文字に思いを込めて書いていく。
だから手紙からは書いた人の気持ちがにじんでくるように感じるのです。
もうひとつ。
手紙はまず読む書面を包んでいるものがあります。
封筒。その封筒ですら、書いた人が選ぶものに気持ちが込められている。
開封する前に、差出した人の名前をみるところから、もうその想像ははじまってしまう。
手紙を開ける時、ワクワク感、ドキドキ感はマックス!
電子時代の「手紙」
ひるがえって、21世紀の今。フェルメールが生きた17世紀ばかりか僕の中学生時代だった20世紀とも大きく変わってしまった「手紙」。
1年のうちで何度本当の手紙を書いたり、受け取ったりするだろうか。
手紙とまではいかなくとも、人の手で書かれ、人が運ぶ文章が随分と減りました。
年賀状ですら電子化され一瞬で相手に飛んで行ってしまう時代になってしまっている。
筆や鉛筆がキーボードに代わっても、気持ちを伝える事は出来るといいます。
もちろん文章そのものでそれを伝えるのは基本。
でも、デジタルであらわされた文字は、その時の気持ちを完全には映し出してはくれない。
喜び、ときめき、緊張感、あこがれ、時には怒り、悲しみ…人が書いた文字のはなつメッセージ性には、Oと1で作られた結果のデジタルの文字はとてもかなわない。
ボタンを押せば一瞬でデリートされてしまったり、未開封のままゴミ箱にすてられる電子化されたメッセージ。
毎日、世界中で何千万、何億も ”捨てられる” 言葉。
手紙ならば、受け取ってそのまま捨てられることはないだろう。
手間をかけてわざわざしたためた文章は、やはり気になるもの。読みたくなるもの。
あらゆるものが「電子化」している時代だからこそ、手で書く文章がいっそう輝く気がする。
そして人は「封をあけて中を見る」誘惑には勝てないのです。
書く人と、読む人と。
フェルメールの絵の女主人、そして中学生の僕。
ラブレターを開ける時のドキドキ感は時代にかかわらず同じ。
書く人の気持ちが大きい程、読む人の受け取り方も大きいのが手紙。
だからだろうか、僕はあのラブレターをなぜか捨てられず、家の押入れの奥のどこかにまだ残っている。
フェルメールの絵を再び見て、またあの手紙を思い出してしまいそうです。
きっと、あなたも?
【フェルメール関係の記事】
▶︎『フェルメール展が3倍楽しめる!時を越えて届くフェルメールの魔法』
▶︎『聖プラクセディス 日本人が持っているフェルメール作品?』
▶︎『フェルメール展から見えるオランダの至宝・アムステルダム美術館の4人のマイスターたち』
【もう一つ読んでみませんか】
▶︎ムンク展