その音はいかにも優しかった。
「トクン、トクン、トクン…」
激しく、勢いのある音だと思っていたのに、もっとゆったりとしたリズムを刻んでいた。大きくなった後には小さくなる、まるで水が満ちて、引いてを繰り返すような。
なぜか目からは涙がつつつ、と流れてなかなか止まらなかった。
四国・四万十川。
黄色い菜の花がその岸辺に咲き、テレビでは少し南の宇和島での日本一早い桜の開花を知らせていた。
たゆたいながら流れていく四万十の清流を足元に見る場所で3日過ごす機会があった。
その集まりには自分の人生を必死で生きてきた人がたくさん来ていた。多くは自分で事業を起こし、家業を継ぎ、また独立開業した『自分の城』を持つ人たちだった。
そう、「普通のサラリーマン」は僕以外にはいなかった。
初めて会う人ばかりの中で、最初はかなり萎縮し、気後れしていた自分。
いつもの僕だ。人見知りで、初めて会う人とは会話がなかなか続かない。
何を話していいのかもよく分からず、一応の自己紹介の後、特に語るストーリーもない、「つまらないヤツ」。
思い返せば4-5歳の頃、転勤族の親父のため3度も幼稚園を変わった。友達ができる頃にはいつも引越しとなり、新しい場所ではポツネンと孤独だった。
だから、当時見ていたテレビのヒーロー(仮面ライダーだったかな?)が変身するポーズを頭で思い浮かべて、皆が楽しそうに遊んでいる校庭の真ん中で1人で「へんし〜ん!」ポーズをやっていた。
周りの輪に入りたい気持ちに反し、何をすればいいのか分からず、空想世界に入って逃げていたのだと思う。
大人になっても同じ。違うのは、仮面ライダーの変身ポーズはしないぐらい。中身は5歳の子供のままだった。
合同ワークが始まり初日が終わった。あちこちで人の輪が出来、歓談が始まる。
なのに人に話しかけられない。話がなかなか続かない。自分がさらけ出せていないのだ。
話しかけられないのは、自分のほうが空気の鎧をまとって人を遮断していたから。
「素の自分」が他人に受け入れられないのではないか、という心配のモトが5歳の時の自分の体験に在るのはずっと分かっていた。
未だに新しい人に会うたびに、ドキドキしながら母に手をつながれて入っていく新しい幼稚園の建物が思い出される。
せっかく仲良しになった友達と別れてしまい、連れてこられた新しい土地、新しい生活。
そう、大人の都合に抗えない5歳の僕は、そこに「連れてこられた」のだ。友達とは「別れさせられた」のだ。
大人になった今でも目の前に新しく会う人の顔があると、頭や身体が反応する。
『ニゲロ、ニゲロ。キズツカナイヨウニ、「仮面ライダー」のセカイニ、ヒナンスルノダ…」
四万十まで来たオトナのボクの頭の中でもその声は響いていた。
そこにいるだけで素敵。
2日目。思いもしない機会があった。
たまたま一緒にいた人の背中に耳を当ててしまったのだ(あ、男性です。誤解なく)。
他人の背中に耳をあてるなんて、生まれてこのかたほとんど機会が無かったのだけれども。
もちろん、出会って2日目の人だ。普通はそんなこと絶対しない。
背中側からは、その人の顔はむろん見えない。
だから、怒っているのか笑っているのか、はては泣いているのかさっぱり分からない。
それは僕のような人見知りには安心な世界だ。
だが、反面その人がいつ振り向くのか、そしてどんな顔を向けて何を言ってくるのか、ビクビクしなければいけない状況ということでもある。
そんな世界でそっと他の人の背中に耳を当てて澄ましてみたのだ。
聞こえてきたのはかすかな鼓動。
遠くどこからか聞こえてくる音。おだやかでゆったりとしたリズム。
そう、まるでそばを流れている四万十川の流れのようだな、と思った。
たゆたう川の流れのリズムが、脈打つ鼓動とシンクロするように。
(人の心臓が脈打つ音は、こんな風に聞こえるんだ…)
耳を当て、その音をじっとして聞いているとなんだか泣けてきてしまった。
8ヶ月前、僕の心臓は一度止まった。生まれてからずっと脈を打っていた命は動きを止め、生死の境をさまよったのち5日後、幸いにも意識を取り戻した。
そんな経験を経て、聞いた人の心臓の鼓動。
(ああ、この人も生きているんだなぁ…。僕と一緒だ。何にも違わないんだ)
そんな思いが胸の中に湧き上がり、気がつくとあたたかいものが頬を伝っていくのを感じたのだった。
泣いている僕に気がついたのか、振り返ったその人。
たまたまなのか、照れたようににっこり笑っているその顔を見ていたらホッとしてまたさらに泣けてきてしまった。
そこにいるだけで、まだ会って2日目。よく知らないのに、そばに立っているだけで安心出来るなんて。同じ脈をうつ命も宿す人がいるんだと感じるのが、こんなに素敵だと思った事はなかった。
いちど無くしかけたお陰で、「命」を感じる事に敏感になっている僕。そのおかげで、人一倍、ひしひしと感じられただけなのかもしれない。
「生きてきた道は違えど、同じ温かみを持った人間じゃないか」
なんてことない、みんな同じヒトじゃん。
この出来事を境に僕は周りのみんなと普通に話せるようになって残りの日々を過ごせた。
たまたまなのかも知れない。でも、仮面ライダーの世界よりももっと素敵で気持ちのよい世界だったのは間違いない。
そして、心配していたような事は何も起こらなかった。
(ナニモ、オコラナイヨ)
僕は何を心配していたのだろうか。
今となれば、その心配する「何か」すらもう覚えていない。
そもそも、その「何か」すら分からず、恐れの世界にいる事が安心だと感じてしまっていたのでは?
『自分と違うのが他人。
他人は僕を受け入れてくれない。
だから僕は周りに見えない空気をまとってそれを遮断しよう。
それが、安心だ、うん。』
5歳の無垢な子供には、それしか出来ず、その空気は長い間ずっと付きまとっていた。
大人になった僕は、四万十川のほとりで、心臓の音を通じてようやく感じることが出来た。
「自分も他人も同じヒトなんだ」
… 仮面ライダーは僕の世界から消えた。
5歳の時のあの記憶は、四万十の清流に流れてどこかに消えてしまったようで、もう見えなくなった。
まだ脈打つ自分の命を感じるのが、たまらなく嬉しい。
さあ、家に戻ろうか。