展示作品全点が撮影可能。思わず見入ってしまう『奇想の』浮世絵。
このひとたち、タダモノではない。
思わずハッとするどころか、心臓が止まるかのような衝撃的な描写。
おどろおどろしい怪物が横行し、血しぶきが吹き出す。
怪しげな妖怪退治に、血で血を洗う侍たちの斬り合い。
普段イメージしている『浮世絵』とは全く違うイマジネーションの世界がこれでもか、というほどに、たたみかけてくる。
それが名古屋市博物館で開催が始まった『国芳から芳年へ』。
江戸時代後期に活躍した『奇想の浮世絵師』歌川国芳(くによし)と『最後の浮世絵師』と呼ばれ明治にかけて描き続けた弟子の芳年をはじめとする後継者たちの展覧会です。
よくもまあ、ここまでのコレクションがあったものだと感心するほどの『血みどろ絵』の数々。誰にでもある「怖いもの見たさ」を大いに刺激する今年きっての展示です。
しかも、全作品が撮影可能、というのがうれしい。
奇しくも今、同じ歌川国芳が他の7人の画家とともに名を連ねる『奇想の系譜』展も東京都美術館で行われ、盛り上がっています。
が、こちらは作品の撮影は…出来ません。
さすが黄金を撒いて人心を虜にした秀吉を輩出した名古屋!
『なんでも撮影してきゃあええがね!』と大盤振る舞いです。
さらには、江戸時代後期から明治にかけて比較的新しい時代の刷りとはいえ、これだけまとまったコレクションが一度に公開され、撮影まで出来る機会はまずない。というか『2度とない』。
そして展示会に足を運んだ後は、あなたの頭の中にある、今までの教科書的な『浮世絵』のイメージは180°ガラリと変わってしまうハズ。
これは…見逃せない。
人の魂を直撃するワンカット映像。
人間、怖いもの、異形のものはなぜか、かえって見たくなるもの。
歌川国芳はそれを良く分かっていたのだと思う。
本当は描いちゃいけない、見ちゃいけない…
正面切ってそんな絵を世に問うたのが国芳。
なかなか絵が売れず、試行錯誤の上だったとは言え、人が何を求め、何に好奇心を抱くのかを探求し、たどり着いたのがこの『奇想』。
だが、国芳の絵は単に奇怪なものを描くだけでなく、物語性を意識した場面の切り口がとんでもなく素晴らしい。それはまるで優れた映像作家のよう。
例えばショッキングなこの絵。
逆さ吊りにされた妊婦。
それを眺めながら、包丁を研ぐ老婆。
『何故? どうしてこんなことになったの』と、おもわず口を漏らすショッキングな絵です。
荒れ野に住む老婆は泊めた旅人を殺めては金品を奪っていました。そして子供を身ごもった妊婦が来るのを待っていたのです。
老婆は元は大きな大名屋敷に使えていました。大名の跡取り息子の世話役として、生まれたばかりの時から面倒を見て来たのです。
が、至福の日々は長く続かず。
幼い大名の息子は不治の病にかかり、その命を救うには何と生きた胎児の心臓を母体からえぐりだして、その生き血を飲ませるのが唯一の方法と知る。
嫁入り前の自分の娘を置き去りにして家を出た老婆は大名の跡取り息子を助けたい一心で旅に出て荒れ野の一つ屋で機を伺っていたのでした。
そして、若い娘が一晩の宿を求めて尋ねてくる。お腹が大きな妊婦だと知り、老婆は寝床についた娘を縛り上げ、逆さに吊るし、事におよぶ…
今まさに、事におよぼうとしている老婆の眼はギラギラと光っておぞましい。
でも、この娘は老婆と生き別れた実の子だった…
老婆に去られた娘を不憫がり、大名はその娘に祝言をあげさせてやり、娘は子供を身ごもった。自分が幸せに生きている事を自分の母親である老婆に知らせたくて、娘も後を追って旅に出て、そしてこの一ツ家にたどり着いたのでした。
何という悲劇でしょう。
普通なら実の子と知って殺してしまった娘の横で嘆く老婆を描きそうなもの。
しかし国芳は、縛り上げた娘を前に包丁を研ぐ老婆という、これ以上ないショッキングな瞬間を切り取って絵にしました。
伝説では単に老婆が娘を殺したとしか伝えられていません。
そう、この絵は国芳のイマジネーションの賜物なのです。
国芳は誰もが知っていた昔話や伝説、歴史上の秘話に題を求めながら、たくましい想像力で映像化しています。
この後、どうなるのか? 鑑賞者がハラハラするであろう、昔話のワンシーンをこれ以上ないどんぴしゃのタイミングで切り取ってみせるのが、国芳の真骨頂だと思います。
まるで映画の宣伝用スチールショットのごとく、まず魂にガツンと衝撃を与え、そして見る者に描かれた物語に対する興味を大きく沸き立たせる、鬼才の映画監督・歌川国芳、というべきか。
絵の背景をどうしても知りたくなったあなたは、実の親が他人の子供のために子供を殺めてしまう悲劇を知って再び思うのです。
『何故? どうしてこんなことになったの』
『魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する妖しい世界』
国芳の絵にはどれも「物語」があります。
その中で最もダイナミックで映像で訴えることが出来るシーンを豊かなイマジネーション力を駆使して切り取る。
しかもそれは連続活劇ドラマの毎回のエンドシーンのようなのだ。
「この続きは… 来週! 次回を見逃すなっ!」
そして見た人はどうしても作品に描かれたストーリーを知りたくなる。
次はこれ。
海でワニとも魚ともつかない不思議な怪物と戦う男。
「江戸の海を荒らし人を食らう海の魔物たち。果敢に挑む朝比奈三郎。
しかし彼の武器は自慢の腕力のみ。果たして彼は海の獣の牙相手に勝つことが出来るのか… ? 続きを待て!」
かと思えば、巨大なクモが出現。
「突然目の前に突如現れた巨大クモ。頼光を守る四天王。この化け物は主君を狙った何者かの刺客なのか? はたまた突然変異し、人を腹に入れて食べたい単なるバケモノか?
彼らの運命やいかに… 続く!」
って感じです。
そしていよいよ『血みどろ絵』の登場。
残酷シーンが無理、苦手な方はここまでです!
逆恨みされた侍。命を狙われ、寝首をかかれるよりは自ら切り込みに行き、敵の親分を討ち果たす!
『どうせ命が死にさらされるなら、こちとら江戸っ子。死んで花を添えるのも悪かぁねえや。』
何人もの敵を切り、首をいくつもひっつかんで相手をひるませながら一歩、また一歩とボスに近ずく。
がこちらは一人。ついに致命傷を受けてしまう。
それでも返り血を浴びてもひるまずまだ戦う気だ。
『てやんでいっ! 死ぬのが怖くて江戸っ子がつとまるかいっ!』
これはまだ序の口です。
ここにいたり、残酷さ極まれり。
うわ、顔が、顔がっ!
これは漫画「北斗の拳」か?
そして…
あまりにも生々しい凄惨な人殺しの場面。
この『英名二十八衆句』という血みどろ絵の連作、会場では一番人気で人だかりが出来ていました。
みてはならないものを見たくなるのは、真理なのですね。
「フツウジャナイ」、普通の浮世絵もある。
勿論、展示の中には『普通』の浮世絵もある。
でも、やっぱり何か
「フツウジャナイ」のだ。
『いよっ! 待ってました!!』
うーん、なんともなまめかしい。
決して男を誘っているわけでないのですが…。
カヤの中で寝ていたら、虫に刺されてしまったお姉さん。
『カユイ、カユイ。誰か背中かいてぇ…』
声が聞こえて来そうですな。
そしてこの歌舞伎役者。
画面からはみ出しちゃうよ。
なんだ、コイツら? 人間?
妄想世界へいってらっしゃい。
どうでしたか?
浮世絵は、そもそも江戸の街中で庶民の誰もが楽しめた娯楽。
もちろん芸術性もあるのだけれど、見て、感じて、シンプルに楽しむのが面白い。
肩がこるような絵のタイトルなんぞいらねえや。
ほとんどの絵についた題名は後に誰かがつけたに過ぎない。
そんなことはどうでもよく、絵から受けた想像の世界でそれぞれ勝手気ままに楽しむのがこの上なく心地よいのです。
ここは美術館じゃなく、映画館、の感覚。
国芳たちはあの世でぼやいてるに違いない。
『奇想の画家って、なんだいそりゃ。背中がかゆいぜ…。お前さんたちが勝手に俺たちの絵を見て奇妙な世界に想いを寄せてんじゃないかい? 』
さあ、あなたもイマジネーションのミラクルワールドに… いってらっしゃい!
名古屋市博物館 (4/7まで)
●地下鉄 桜山線 桜山駅下車 徒歩5分