「ここは、コンサート会場なのか?」
思わず右手を高く頭上に上げて人差し指を天に向かって突き出す人がいる。
身体を揺すって足踏みする女性は頭が左右にシェイクしている。髪が乱れているのも気にならないようだ。
そして、突然に隣からは若いカップルの叫ぶ声が聞こえてくる…
「We are the champions, my friends ! 」
ルーカス・スピルバーグ映画と共通するワクワク感
そう、映画「ボヘミアン・ラプソディ」である。
いまや、「ボヘラブ」の名前も定着しつつある伝説のバンド、クイーンのメインボーカルであったフレディ・マーキュリーの人生を描いた映画。
そのクライマックスは伝説のコンサートとなったライブエイドでの今も語り継がれる圧倒的なパフォーマンス。
映画館の中で思わずここがコンサート会場かと錯覚してしまう程、スクリーンの前にいる観客たちが我を忘れてしまう圧倒感。
感じるままに身体が動く。
映像なのに、目の前に映し出されているのは本当のバンドではないのに、もっと言えば、フレディ本人でもないのに… 観客の彼らは、いや僕らは敏感に反応していた。
理屈じゃあない。
視覚と聴覚からの刺激が脳細胞に突き刺さり、ビンビンと身体がしびれてくる。気がつくと、手が動き出し、足はステップを刻み出し、そして口からはあの馴染みのフレーズが出てきてしまう。
よくよく見ると、興奮していたのは私と同じくクイーンをナマで見てきた世代。
テレビのブラウン管を前にMTVを見ながら「We will rock you !」と叫んだことが一度や二度はある人たちだった。
本来、映画とは映し出される映像から発されるメッセージ性はきわめて高いメディアだと思う。他の鑑賞者の邪魔になってはいけないが、感覚に訴えかけるものを拒否するのはとても難しい。
かつてルーカスやスピルバーグの作品はジェットコースタームービーと呼ばれ、映画館の中では観客が興奮のあまり叫んだり、大声で笑ったり、拍手したりする現象が起きた。
映画とは静かに、つつましく鑑賞するものだと長く考えられてきた日本ではそれまで考えられない現象だった。
「ボヘミアン・ラプソディ」は彼らの作品と似ている。同じく、「感覚」に訴えかける。
ルーカスらの映画には熱心なファンが公開初日に殺到した。待ちに待った新作の公開。噂で流れてくるストーリーの断片、まだ情報の少ない時代に映画雑誌にのるわずか数ページの記事をむさぼり読み、指折り数えて待ったその日。
スクリーンの前に集まった人たちのほとんどは、その映画を「渇望」してきた同じ仲間だったのだ。
そう、このロングラン中のクイーンの自伝映画も同じ。
封切りしてからもう何ヶ月もたった映画だ。それでも座席は多くの人で埋まっている。
シートに座っている人の多くはこの映画を長く待っていた人や、熱心なクイーンファン、映画を何度目かのリピーターだった。お互い他人同士でも「仲間」なのだ。
実在したからこそ。
だが、映画「ボヘミアン・ラプソディ」にはルーカスやスピルバーグ映画にはなかったちがう身体の反応があった。
映像からつむぎだされるメッセージに対して受け身の反応ではなく、映像を観た自らがこちらから動き出してしまうのだ。
これはいったい何なのだろう?
かつてのジェットコースタームービーの中では、インディもジェダイの騎士も、遠い世界にいる。
だが、フレディ・マーキュリーは違う。
その時代、チャンネルをひねればどれだけ彼とクイーンを観た事か。MTVという伝説的番組の貢献もあり、クイーンはマイケル・ジャクソン同様にもはや隣にいるスターとなった。遠い国の遠い存在ではあるけれども、側に感じることができるスター。
そう、実在したスターが主人公であるからこそスクリーンでの存在感が違うのだ。
だから、画面から発せられる熱狂を単に受け止めるだけでは観客は満足出来ない。
自らもスクリーンの中で歌い、動き回るフレディ(もちろん演じたラミ・マレック)と同じアクションをしたくて、矢も盾もたまらなくなる。
この映画のユニークな点は、従来の実在したシンガーやバンドのドキュメンタリーでもなく、かといってノンフィクションでもない、あいまいな世界を構築し、成功している事だと思う。
観客は映画のクライマックスまでにフレディの半生を共に経験し感じたからこそ、ラスト20分のライブエイドのステージに思わず身体が反応するのだ。
ブライアンに重なる自分
最後のステージシーンではカメラが舞台の上から歌うフレディの背中とウェンブリースタジアムの興奮する観客を何度も映し出す。
その視点はまるで、フレディのバックで演奏している仲間のメンバーかのようだ。
「俺はブライアンなのか?」
もはや自分は、フレディの歌う旋律に弦を弾きながら、身体をシェイクしているブライアン・メイそのもの。
フレディを側で観てきた同じクイーンのメンバーであるブライアンやロジャーの気持ちと、観客は同じものを感じてしまうのだ。
そう、そうなのだ。
映画を観ている僕らは、知らず知らずのうちにクイーンというバンドのメンバーとなって8万人の観衆の前で演じているように錯覚してしまう。ここに至るまでの仲間との葛藤や喜び、苦悩までも含めて全てを共有したメンバーとして、だ。
映画「ボヘミアン・ラプソディ」のユニークさは、まさにここにあると思う。
「どうでもいいことさ…」
このユニークな体験は素晴らしかった。
そして、それはやはり主演のラミ・マレックあっての事だろう。
2時間の尺に納めるためで多少予定調和的なストーリーであるこの映画も、結局は彼の演技が全て細かい事を忘れさせてしまう。
中には怒る方もいるだろうが、フレディが先でラミが後か、ラミが先でフレディが後なのか、もはや分からない程、一体化している。
今、まだ健在のクイーンのメンバーらとラミが同じ舞台で現れたとしても何の違和感もないだろう。
それほど彼はフレディそのものだった。
僕には「ナイトミュージアム」の間抜けな悪役しか印象になかったバイプレイヤーのラミ・マレック。
彼をこの映画の主役に起用することへ、心配する声も多かったようだ。
が、フレディはこうも歌っている。
” Nothing really matters to me ”
(問題なんて、ないんだよ! )
奇しくもフレディが残したこの曲「ボヘミアン・ラプソディ」がラミ・マレック自身を勇気づけて成長を促したように思えてならない。
先の第76回ゴールデングローブ賞のドラマ部門作品賞と主演男優賞を受賞した事で、次はアカデミー賞も、の声もある。ラミがオスカー像を手にスピーチをする姿をもうじき観ることが出来るのだろうか?
でも、あの世のフレディは、大きな口でニヤリと笑ってこう言っている気がする。
” Wind blows doesn’t really matter …”
(どうでもいいことさ)
「ボヘミアン・ラプソディ」シンドロームはまだまだ終わらなさそうだ。
【ボヘミアン・ラプソディ】
監督:ブライアン・シンガー
製作:グレアム・キング、ジム・ビーチ
出演:ラミ・マレック
2018年 20世紀フォックス映画
公式サイト:http://www.foxmovies-jp.com/bohemianrhapsody/