書画だけの特別展
通訳ガイドの試験勉強を通して美術品や国宝、神社仏閣に興味をもち出してからはあちこちの美術展覧会にも足を運んでいる。
ところが、「書画」や「書跡」の展示にはさっぱり行っていない。興味がなかなか湧かなかったのだ。
というより、「なぜ、これが『美術品』なのか?」とさえ思っていた。
今回、東京国立博物館で行われた
『特別展 顔真卿 -王羲之を超えた名筆』。
一部日本の国宝書跡が展示されるため、常設展のついでに『国宝ハンター』的興味だけで訪れた。
が、顔真卿の『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)を見た瞬間、書というものから初めて頭にガツンと大きな岩が当たるような衝撃を受けたのだ。
中国語飛び交う異常な会場ムード
いつものようにトーハクの前に向かう。
が、驚くことに、もうすでにチケットを買う長い行列が出来ていた。
人気の特別展でもここまで長い待ちはそうそうないほど。
「書跡の展示なんてそんなにも混むはずはないだろう」と思っていたが、アテが外れた。
驚くのは並んでいる人達から中国語が頻繁に聴こえてくること。
閉幕直前の美術展はどうしても混む。この「顔真卿展」も例にもれないのだろうが、それに輪をかけて海外からの訪問客の入場者率が相当高い。
毎月のようにトーハク(東京国立博物館)に足を運んでいるのだが、こんな現象は初めてだ。
後述するが、その理由は会場を出た直後、理解する事になる…
1,000年前の人物が僕のノドを締めてくる
そもそも自分は『書跡』を美術の対象としてあまり興味を持っていなかった。
たとえ国宝であっても書いた人物が著名な歴史上の人物である物をチラ見する程度。
今回のメイン展示品は台湾の故宮博物院からの来日だ。
なのにその故宮博物院を訪れた時も書画の展示はまるっとスキップして、他の展示しか見ていない有様。
顔真卿なんて、最近まで『誰それ? 』というのが僕の扱い。
が、今回は違った。
前半かろうじて落ち着いて書かれている文章は段落を追っていくうちに乱れ、文字は震え、反すうし、のたうつ。
怒涛のような筆圧は小さな子供がクレパスで書き連ねたようだ。
安史の乱で、逆賊に殺された親類に思いを走らせた筆は、見たこともなく感情的で、一文字ごとにその時の筆者の感情が驚くほどに表されていた。
そもそも中国語なのだから、本当は日本人には読んでも意味が分からない…ハズ。
なのに、目が文字を追っていくにしたがい、顔真卿が筆をとりつつ怒り、悲しみ、そして慟哭する様がまるで映画のように脳裏に浮かんで来る。
1,000年以上前に異国で生きた人間なのに、知らないはずなのに…だ。
目の前で必死で筆を走らせている顔真卿。
(オレ、タイムスリップしてるのか?)
…
「お客様、立ち止まらずにお進みください」
会場の整理をしている案内の人に注意されてハッと我に帰ると、顔真卿はもうどこにもいなかった。
日本語と中国語もない、ため息があちらこちらから聞こえてきた人の列をそっと離れ、僕はフゥっと息をついた。
1,000年以上前の異国の人間が文字を通して僕の息を止めようとしているようで苦しかったのだ。
筆跡を「人」として見るのはアジアだけ。
会場を後にして、落ち着いて考えてみた。
どうして、単なる「文字」の連なりが、知るはずのない1,000年以上前に生きた男のヴィジョンを生み出すのか。
「文字」なんて、極論すればヒトの生み出した「記号」だ。
その記号が、
①芸術性をもち
②感情に訴えてくる
という不思議。
まず①芸術性 を考えてみた。
思うに「書画」というものはアジアの限られた地域でしか認識されていない「美」ではなかろうか。
筆跡そのものに芸術的価値を見出し、その美しさをたしなむのは、特に「漢字」が生きている世界に顕著。
たかだか50程度の文字で全てを表すアルファベットをはじめとする表音文字文化圏ではありえない事だ。
欧米では文章そのものに歴史的意味がある場合(例えば憲法発布の合議書や文豪の自筆原稿など)をのぞいて筆跡そのものが国宝的価値を持ち伝えられてきたことはない。
文字が「意味」を表す表意文字を使う言語圏特有の文化が、「書」なのだ。
漢字はアルファベットなどと違い、一文字一文字が、それぞれ意味を持っている。
つまり文字そのものが「個性」を持っているのだと断言できる。
次に、②文字が持つ感情の表現性についてだ。
書跡にはその文字を書く人の気持ちが筆づかいに現れる。
気がついたのは、漢字はその構成要素が、「画(かく)」で出来た文字だということ。
漢字はいくつかの画数から出来ている。
一つの「画」ごとに筆づかいを止め、また新たに筆をつける。
その区切りが、「トメ」や「ハライ」などだ。
だから、一文字、一文字書く事に心に湧き上がる感情が「文字」ごと、さらには「画」ごとに表現として出てきても不思議ではない。
「個性」に加えて「感情」が表されたもの…
それは、「人間」そのものだろう。
だから、顔真卿の筆跡は、顔真卿その人をあらわす。
アルファベットではこうはいかない。
書は人なり。
こう会場出口のフリップに書いてあったのが目に留まった。
顔真卿の書跡を見て後世のある人物が述べた言葉だ。
中国の人が書を見る目…
長い列を作り、日本まで顔真卿を見に来る多くの中国の人たち。
そうか!
彼らは書と同時に書いた人そのものを見にきたかった。
だから長い行列もいとわずここに来ているのだ、と理解出来た瞬間だった。
書の道には「臨書」という鍛錬がある。
自分流に筆を走らせるのではなく、忠実に手本を再現する事。特に古来からの名筆を手本として繰り返し行うことで、筆法をものにしていく。基本中の基本、書を習う誰もが必ず臨書するのは古典だ。
だが、『祭姪文稿』を臨書するのは不可能だろう。顔真卿と同じように親しい人を失い、悲しみ、慟哭する体験をし、紙に対面出来る人はまずいないだろう。
「書く」ことの認識が頭の中で劇的に変わった。魂を込めて書いた文字は書いたその人の生き様さえ、読み手に想像させるほどの力があるのだ。
我々は毎日、文字を書いている。
キーボードから出てくる文字は個性も何もないから、その上にあるはずの筆者の感情がどうしても薄れる。
だが、ペンで書く文字は、書いた人の気持ちがすぐにわかるものだ。
「書は人なり」
書くことも同じく見る者の感情に訴える点は僕の見てきた絵画と同じ事にようやく気がついた。
だから書も「芸術」たるのだ。
そして絵画と同じく、文字からは書いた人の個性と感情が自然と人に伝わるものだ、とは知っておいたほうがよさそうだ。