ネット時代の「地球の歩き方」 ②

初めて海外に出たのは20歳の頃でした。当時はスマホやインターネットはもちろん、携帯電話すらありませんでした。

当時、海外の情報を仕入れるのに重宝していたのが、『地球の歩き方』シリーズ(ダイヤモンド社刊)です。

本からネットへ。

当時、1-2年毎に更新されていたこのシリーズは、旅行者たちの実際の生の声を集め、貴重な現地の情報を入手出来る数少ない情報本で「旅のバイブル』のように重宝したものです。

このシリーズが面白かったのは、情報もさることながら、投稿による体験者のコラム、体験記。

ガイドブックでありながら、読み物としての側面もあり、寄稿者が現地で実際に感じた驚きや喜びを想像させてくれました。

知らぬ間に自分の中にも『ああ、同じ経験がしてみたい』という好奇心が芽生え、旅人の仲間入りするような心憎さがあったのです。

ひるがえって現在は旅先の情報は満ち溢れています。『地球の歩き方』も書店には並んでいるにはいます。ですが、そのほかにも旅行サイトをクリックすれば、現地の情報は山のようにあって簡単に入手出来ます。

旅の準備も簡単、行くのも簡単、楽しむのもイージー。その典型的パターンはこうです。

旅に出る前に、現地の情報を入手し、お目当ての場所をまず決める。
現地に着いてそこに行き、『あ、情報通りだ』とばかりに写真を撮って、SNSにあげる。
気の利いたコメントの一つもつけてつぶやけば、当然のように「いいね!」がついた返信が戻ってくる。
「そのお店の近くには〇〇〇という名所もあるから、ついでに行ってみたら?」
などと友人からメールが戻ってきたら、すぐに検索して直行出来る。

まあ、返事をもらった時にはもう次の目的地へと移動してしまっているなんて、急ぎ足の事もままあるようで…

確かに旅行は簡単になった。

でもそれが、「旅』なのだろうか。

情報の中からピックアップされた場所へ行き、単にそれをなぞる経験をする。話題のレストラン、評判になった観光地やイベント、流行の店舗でセルフィーを撮って、その場ですぐに投稿する。

予定調和的に行動して、事前に知った断片的情報を「ああ、やっぱりそうなんだ」と確認して、これまた旅先から時間がないからか手短な発信をして終わり… これが「旅」?

旅に出かけた人から送られてくる山のような投稿。絵画のような景色の中で楽しそうだ。

友人が楽しんでいるのを見るのは悪くない。でも、それは瞬間だけを切り取った断片的なものであるのは否めない。

受け取る情報が「点」ばかりなので、なんだかコマギレ感が半端ないんです。

コマギレ感の正体

移動する時間、宿に落ち着き夕食の時間、寝床に入り、今日の旅の1日を振り返る時間…

長く旅に出ていた時、それらの時間は「思索の時間」でした。

旅に出る前に、今日の目的地の情報はすでに分かっていた。ですが、その時振り返り思うことは、体験の最中に感じた事を元にどんどんと自分の中で熟成されていくようです。まるで頭の中で別次元にいるよう。

実際にその地に立った感覚がまだ残る旅の幕間の時間に再び出る別の旅。現実に訪れた場所、会った人に再び思いをめぐらす… それは「思索の旅」です。

明日訪れる場所。いよいよ見ることになる期待、その瞬間を想像し、想いをはせる… これも「思索」です。

そう、ネット時代の現在、多くの人たちはこの「思索の時間」を過ごすことなく、それがかわりにスマホを手に取っている時間になっているはず。

スマホでSNS発信をするのがいけないわけではありません。

「絶え間ない発信」を優先するあまり、旅に出て最も得難い経験である、「旅先での思索の時間」を経ることなく生み出される発信でないのが、前述のコマギレ感の正体です。

十分な思索の時間から紡ぎ出された言葉であれば、当地から発信されるSNSの内容も十分に魅力的です。

そんな文書を発信してくれる、今でも素敵な旅をされている方も、僕の周りにはまだまだいます。旅先で十分な時間をとって、練り上げた文章は、当地でいるがゆえの瑞々しい感覚が十分に伝わり、憧憬感が湧き上がってきます。

旅先で思索の時間をもてるかどうかが、実は「旅」自体を深める上で大切なのです。

行き先ではなく途中にある大切な時間

十分な「思索の時間」で仕込まれた文書はやはりインスタント的発信とは全く違う。

インターネットに流れているブログ、ツイートの類はあっという間に『言葉の海』『文字の海』に埋もれていってしまう膨大な情報です。その中に旅先からのあまたの発信も放り込まれます。

幾千の情報はいったん海面に浮きますが、海の上から見てもらえる時間はごくわずか。

知人から押し寄せる情報量だけでも相当な量なのが現代。その中からピックアップしてもらい、しかも最後まで読んでもらうためには、それなりの国語力も必要になります。

逆説めきますが、旅に出て思索する事で、文書にも磨きがかかります。

それは、古来から文筆家はよく旅を好み、文字に記してきた事でも分かります。

旅に出る、ということは長い間、日常から離れる事でした。その違った環境の中に自分を置き、ふれあう自然や未知のもの、人々から感じる別の「何か」を取り込むことで、自分にも変化が生まれる。

『いい旅だったよ』

「旅」が「旅」であった時代、ようやく旅を終えて帰ってきた人の話を聞くのは、この上なく至福だった。まるで子供の時に枕元で楽しみにしていた母親の本の読む昔話のように、ワクワクしたものです。

旅した小説家たちについても、見ようによっては彼らが旅に出て、十分に思索した経験をへて書いたからこそ世の人々を魅了した文章が生まれたと解釈出来るのです。

(NOOSA, QA, AUSTRALIA)

思索の旅に誘(いざな)う、現在の『地球の歩き方』

そう、本来の「旅」は創造力をおおいに刺激する行為で、発信力を大きく高める効果がもともと大いにある行為。

『ネットの時代』であるからこそ、発信が大切。

ですが、その発信を良きものにするためには、『コマギレ』の情報発信よりも、十分な旅先での思索という熟成期間をとった上で筆を持つ事。

そのためには、それなりのスケジュールを組むことも大切です。

多忙な現代人、容易に旅に出るのも難しいほど多忙な人も多い。

ですが、時間をかけずとも、またお金をかけずとも自分の旅先を見つけことは出来ます。

自分の好奇心を刺激する場所であれば、海外でなくてもいい。その場所に想いをはせる十分な時間をとりながら移動する(ですから移動中に携帯を触っていてはいけない)、これが大切。

目的の場所では未知の世界に出会い、ぞんぶんに感じて体験する。

そしてもっとも大切なその後の思索の時間。その時、紡ぎ出されてくる言葉こそが人を魅了してやまないものへと昇華する。

さらに旅先から帰って日常に戻るまで、思索が言葉となった文章に手を加え、何度も見直すのもありです。

そうして書いた旅の文章は、自分ですら何度も読みかえしたくなる。

画家が作品を完成させるために納得いくまで何度も筆を入れるように、幾度となく加筆するかもしれない。

リアルタイム、がなんでもいいわけじゃあない。どうせなら一呼吸おいて、自分の発信で人をめくるめく思索の森へと誘い、酔わせてみる… ネット時代だからこそ価値が見いだせる、旅の真髄ではないでしょうか。

狭いと思っていた地球は、まだまだ好奇心をくすぐるワンダーランドのようです。

(URULU NATIONAL PARK, NT, AUSTRALIA)

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