種子取祭(タナドゥイ)見学記 -『竹富島で会いましょう』③

種子取祭はいよいよ舞台芸能へと移ります。舞台は大きく観客席に向けて開いていますが、正面は御嶽となり各芸もこちらを向いて演じられます。あくまでも芸は神様に奉納するものなのだと思いました。

祭り7日目のこの日は、玻座間村が演じます。

⑩ 奉納、長者芸能の神・ホンジャーに扮するのは国吉家当主。種子取を寿ぎ、粟・芋・麦・稲穂を奉納します。

⑪ ミルク(弥勒)竹富島の弥勒神は、仲道家の先祖が弥勒神の仮面を海岸で拾って拝み始め、後に与那国家に譲りました。今でも種子取祭に面をかぶって弥勒神として登場できるのは、与那国家の当主だけです。

弥勒節(みるくぶし)の歌に促されて、シーザ(先輩=二才)や大勢の供、子供たちとともに登場。

最後は「ヤーラヨー節」で退場。愛らしいミルク様はやはり人気です。

⑫ 鍛冶工(カザグ)鉄が貴重品であったころの鍛冶の様子を描いた狂言、鍛冶工狂言。

⑬ 赤馬 八重山を代表する民謡で、祝いの席、座開きの歌舞です。

実は前の晩に散歩に出かけて偶然、玻座間部落東会館で最後の練習に励む彼女たちを見かけていました。

各集会所では、前夜に芸能のシクミ (仕込み:リハーサル:稽古の総仕上げ) が行われるのです。

⑭早口説 七五調の節です。

⑮ しきた盆 沖縄の伝統的衣装である紅型(びんがた)をまとった女性2人で優雅に舞う踊りです。石垣島の前に置かれたお盆のような島が竹富島だ、と謡っているのが名の由来。

⑯ 組頭 (フンガシャ) 江戸時代の五人組制度のように琉球王朝時代にあった村の中の組織の名前が組(フン)。その頭が組頭(フンガシャ)。

俺が一番畑仕事をして働いたぞ、と皆がそれぞれ組頭にアピール。

⑰ 種子取節 文字通り種子をまいて豊作を祈る踊り。

⑱ 高那節 新城島のジュゴン取り達が西表の高那村へ行って漁をした歌という説もあるようで、「ザンザブロウ」は、正しくは「ザンザブル」と言いザン(ジュゴン)のザブル(頭)とか。

⑲ 真栄(まさかい)人頭税を納めるため、西表島・仲間村に移住せざるをえず、離別を余儀なくされた真栄(マサカイ)と竹富島に残されたカナシャーマが互いに、「竹富の上空に白雲、積雲が上がったらカナシャーマだと思ってちょうだい」「西表島の古見岳の真上に月が上がったら真栄だと思ってくれよ」と言い交す哀しい舞踊。

目の覚めるような美しい赤色の八重山地方の正装のスディナ・カカンを着た踊り手達。

⑳ 安里屋 竹富のクヤマは与人 (ヨンチュ:村長) 役の妻になったが、与人は、首里への帰任の際、寵愛したクヤマに、記念として村きっての一等地、通称「精糖原 (トゥンドーバル)」の3反2畝を与えたそうで、ずいぶん三線で弾いている唄と内容が違う。

㉑ 世持 世持とは「村の長」のこと。世持が畑を耕していたら恵の雨が降り、村の若者を呼び出して「自分の畑に種子を蒔いた後、みんなの畑にも蒔こう」と言う。蒔き終わったらみんなで歌いながら家路に着く、という話。

㊸ 曽我兄弟 (曽我夜討)奉納芸能初日の最後を飾る演目。鎌倉時代初期の仇討ちを語る「曽我夜討狂言」です。

鎌倉時代初期の仇討ちを語る 「 曽我物語:曽我兄弟、曽我夜討」は、1,300年前後に成立した準軍記物語。

庭の奉納芸能 (8演目) と舞台の奉納芸能 (35演目) の全てが終わった時はすでに夕方6時を過ぎていた。この後、イバン (九年母) 戴みの儀式があり、それからいよいよ世乞い (ユークイ) が始まります。

一体感がすごいユークイの様子はこちらの記事で。

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