あちこちで大変なコトになっている
話題のアニメーション映画『天気の子』を観てきました。
(以下、映画の内容・結末に関して書いた箇所があります。未見の方はご注意ください)
100日以上も雨の日が続く東京。ひょんなことから祈れば一瞬だけ晴れを呼び起こす不思議な能力を身につけた女の子・陽菜(ひな)。
だが彼女は実は『人柱』で、晴れを呼ぶたびに体が透けていき、雨を降らせるのを終わらせるのと引き換えに天空の世界に行ってしまう運命だった。
異常気象が続く映画の世界の設定で思い起こしたのはやはり『地球温暖化』。
この数か月、地球温暖化と聞いてガン、と頭に来たニュースといえば、正直個人的なものばかりでした。
登山が趣味で、いつかは行きたいと思っていた赤道上にあっても山頂に氷河を抱くアフリカのキリマンジャロ。山頂の氷河は温暖化のため消失してしまうのも近いのだという。
山の友人の話。彼は山岳会に所属しているのだが、彼の会のメンバーが勇んで登山に出掛けたヨーロッパアルプスのマッターホルン。今年(2019)の夏は落石がひどく長きにわたって登山禁止となったらしい。温暖化で岩壁の雪が解けて危険極まりない落石の多発する状態なのだという(確かにフランスでは40度という異常高温が続く夏だった)。
ところが、映画『天気の子』を見て、東京が水没する、というありえないシチュエーションを実感し、身近な山の話題が聞こえてきて、ここにいたりようやく事の重大さを感じるに至ったのでした。
キリマンジャロやマッターホルンの先に、水没する東京の景色が見えたように感じたのです。
(写真は以前訪れた北米レーニア山の氷河の後退を説明した現地の表示/ 2017.6.29 @kenny3)
『天気の子』に続く地球を天秤にかけた選択とは
主人公は陽菜と出会った家出少年・帆高(ほだか)。彼は人類の人柱となる陽菜を救うか、天に帰った陽菜をそのままにして東京が水没するほどの異常気象の悲劇を終わらせるかを選ばなくなる。自分の愛する少女を救う道と、その他大勢の人たちを危険にさらす将来、その二者択一が描かれます。
結論を言えば、主人公は愛する女性を選び、その結果、ラストシーンでは東京は大部分が水没してしまっている。
映画は素晴らしい出来栄えで、帆高の出した結論も、観客が考えるようにはっきりと答えを出すようにはしていない
『地球』という自分が生きる世界よりも『自分の大切なもの』を選択する… 賛否両論の結論ではあります。
ところが、映画を見た翌日、同じ気候変動に関連しては現実にはもっと切実な『二者択一』のニュースが目に飛び込んできました。
しかも映画と同じように天秤にかけられた一方には『地球』が乗っているという点は全く同じ。
そう、地球温暖化を阻止しようと国連が招集した国連気候行動サミット。ここで各国に火急的な具体的行動を促した16歳の少女スウェーデン人のグレタ・トゥーンベリさんの演説のことです。
若い世代が全世代に向かって、『皆で不幸も分け合い運命を共にする』か、『今決断をして破滅を避ける』か、二択を迫るかのようなグレタさんの迫真の演説は、とても16歳の少女のものとは思えず脳天につきささるようでした。
彼女の迫る『二者択一』、気候変動に懐疑心を抱く首脳たちの中では的にには大きなバランス感覚が欠如しているように感じました。
映画のように『地球』と一緒に天秤にかけるものが、あまりにも空虚なものだからです。
それを言葉で表せば『便利』『楽』『安心』… 映画の主人公のように”愛”に基づく大切なものとはやはりかけ離れた価値に思える言葉ばかりになってしまう。
秤のもう一方に乗せているものが、そもそもまったく違っているように感じたのは私だけだろうか。
この演説を聞いていて感動する人がいた半面、同じ議場にいても何となく遠くを見てどこか他の世界の事のように聞いている指導者たちも映し出されました。
現場から離れた場所にいて、映像や数字でしか『感じることのない』人がその痛みを本当に理解する事は出来ません。
大きな痛みを痛みとして理解出来るのは、同じ痛みを実際に経験する以外にない。
ナイフで手を切った人の痛みを理解しようとして、自分の手をナイフで切ってみる人はまずいないでしょう。
ナイフで手を切ればすぐにヒリヒリ痛む。地球温暖化はすぐに痛みが来るわけではない。
国連はニューヨークの本部ビルではなく、せめて温暖化で水没しそうな大洋州の島の浜辺で会議すれば良かった。あるいは、生活のために燃やされる南米のジャングルの煙の臭いを嗅ぎながら、溶け行く氷河が轟音をたてて崩れ落ちる隣でこの議題を討議すれば、多少なりともナイフで指先を少しだけきっれ見れば… 出てくる結論が違うのではないでしょうか。
地球規模のゆでガエルたち
ここでふと、これは『ゆでガエル理論』の話と同じだと気が付きました。
カエルをいきなり熱い湯の沸き立つ釜の中に入れるとビックリして飛び上がって逃げ出すが、まず、普段棲んでいるのと同じような温度の水の中に入れ、徐々に温度を上げていくと、その変化に気が付かないまま死んでゆであがって浮いてくる、という寓話があります(*)。
”居心地の良い、ぬるま湯の環境に身を浸していると、変化に気が付かず、気が付いた時には取り返しのつかない状況を迎えている” 事を例えた『ベイトソンのゆでがえる寓話』として聞こえた話です。
『気がついたら手遅れで風呂から出られなくなって、全員湯船の中で倒れてしまう』
グレタさんの演説を見ながら思った。。。
我々は今、地球という大きな釜に入っているカエルだ。
日本、アメリカ、中国、ドイツ、ブラジル、インド… たくさんの、様々なカエルたちがいる大きな釜。
ドイツやフランス、スウェーデンなど欧州の国々は、湯船の熱を冷まそうと遅まきながら気が付いて、冷水の蛇口をひねろうとしている。
逆に、出ている湯元の栓をもっと開けようとしているアメリカやブラジルなどの国々もある。
日本はただ、湯船に浸かってそれを見ているだけに見える。
声を上げたグレタさんのような若者たちは、釜の排水栓を抜いて生き延びようとして必死だ。でも同じ湯船に入っている老人たちは、湯が減れば体が冷えてしまう、と文句を言って栓をとりかえそうとしているように見える。
彼女は何も完全に釜の湯を抜いてしまうつもりもないのだが、老人たちはほんのちょっと寒さを我慢するのもイヤがっている。
『せっかく身体が温まって気分いいのに』
ゆでガエルたちの未来
では、今の地球を救うには、『天気の子』のように痛みを全員で分かち合う、という結論しかないのか?
そうならないために、人を動かすのは何なのかを考えてみました。
生活の糧を得るためには現在の社会では『お金』を稼ぐ必要があり、稼ぐには人に喜ばれることをして、その対価としての『お金』をいただく、というのが言わずと知れた経済の原理。
今は、『人が喜ぶこと』=『地球を傷つけること』という図式がこの経済優先社会の中で大きくなってしまいました。
『便利』であることは人が喜ぶ、という今となっては当然の感覚。当初は人が幸せになることをめざしていたはずの利便性の追求。あるレベルを超えると手にする便利さと引き換えにするその代償に人は目をむけなくなってしまいます。
例えば、プラスチックバッグは便利なのだけれど、用が終われば簡単に捨てられてしまう。自分の『幸せ』の瞬間が終わると人はあまりにもあっけなくその『幸せ』を満たしてくれたそれを手放す。捨てることは、地球の痛みを増やす。
人が喜ぶことは良い事なのですが、それと引き換えに消費されたものが地球をむしばんでいく。
消費した分だけ、再生させなければどんどん地球は疲弊していく。
これを食いとめるには、社会全体の価値観をまったく反対のベクトルに変えないといけない。
『人が喜ぶこと』=『地球を再生すること』という今までとは逆の式なれば、それに対してお金が払われるような仕組みになる。そして社会全体がその方向に向かう。
荒廃したジャングルに植樹する、汚染された河川をきれいにする、廃棄されたゴミを再生する… これら行為に喜び、お金を払うことにもっと価値が上がればおのずと地球は再生する方向に向かうはず。
コストだけでは再生製品・再生エネルギーは新品に太刀打ちできません。
これからは逆に、新らしくモノを作り出す部分に課税し、再生部分には減税する。ナイフで手が傷つく(コストを払う)のは地球を痛めて作り出すモノ・サービスを買う仕組みにすればよい、と思います(簡単ではないのでしょうが)。
地球は生き物ではないから『痛い』とは言わない。地球の『痛み』を人の『痛み』に変換させる新しい仕組みが必要で、それはやはり本来100年後の未来を考えることの出来る賢明な指導者たちが決断し、人を導くのがよい。マラヤさんはそれを演説で問うていたのでしょう。でも指導者を選ぶのは我々有権者一人一人でもあります。
つまるところはやはり個人単位での意識と感覚が変わっていく事が必要なのでしょう。
そういった意味ではやはり一番大切な事は教育、教えだと思います。マラヤさんの演説を聞く限り、若い世代にはまだ確かな感覚があり、破滅を避ける可能性を信じます。
自然を感じ、地球を感じる、そんな機会がなければ目覚める事はなかなかない。ひるがえって自分も長年、山や自然を趣味としてきても、本当に『感じ』てきたのだろうか? 大いに疑問です。
登山などのレジャー的楽しみと、子供のころすぐそばにあった川のせせらぎ、残ってた田舎風景などの清らかな自然に感じたうれしさを一緒に並べてしまうのはいけない。
学校帰りにあぜ道を歩いて感じた『自然』。あの感覚こそがマラヤさんが言う本物の『地球の声』なのだと今は分かります。
マラヤさんたちの世代は少なくとも、温暖化ときいて自分の趣味の山登りが出来なくなるなんて個人的なことをまっさきに思ったアンポンタンの私が属する世代よりもずっと希望が持てます。ああ、恥ずかしいっ! 自分もゆでガエルの一歩手前だったなんて!
それでも…
それでも間に合うのだろうか。
遅きに失して、人類全体が大きな『痛み』に耐えて滅亡を迎えるしかないではなかろうか、不安です。
ただし、その痛みは映画『天気の子』の結末に描かれた、東京水没どころではなく、もっともっと大きな、地球規模の代償になる。
山が登れなくなっても山そのものはなくなりはしない。それよりも昔、子供のころに見た田園風景や、草の匂いのほうがもっと残すべき大切な原体験。僕の子供に、孫にはそれを残してやりたい。
100年後の子供たちのことを考える想像力がまだ自分には、人類にはあると信じたい。
私達人類全体が『ゆでガエル』にならないため、一度心地よい湯船を出て、頭を冷やす時ではないでしょうか。