京さんぽ ③豊国神社と高台寺

『陽気な天下人』の見た夢のあと

豊国神社高台寺… どちらも豊臣秀吉ゆかりの地ではあるのだが、受ける印象は全く違う。

秀吉を偲ぶ場所、という意味では同じなのだが、そこで感じる空気はまるで異なっている。

人々に愛された「天下人」を偲んだ ”京の庶民たち” が足を運んだ豊国神社にはかつて熱気を持って迎えた天下人を懐かしむ「祭りの後」感があふれている。

それとは対照的なのが高台寺だ。極めて個人的な(というよりむしろともに天下をとった、という意味では戦友の感覚に近かったであろう)立場、つまり彼の正室であったおね(高台院)が晩年を過ごした寺内。同じ天下を回した「祭りの催行者」として、おねが秀吉をねぎらうような空気をそこかしこに感じるのだ。

この2か所は市内でもそれほど離れてはおらず、1日のうちにゆっくりと見て周ることが十分出来る。

私見だが、秀吉の歩んできた人生を時間の流れとともに感じるという点で、まずは豊国神社を、そして次に高台寺を訪れて欲しい。

天下人となった秀吉が京の人々に受け入れられ、死後に庶民たちによってどれだけ追慕されたのか、まずは豊国神社に残された桃山文化の片鱗を感じよう。そしてその後に高台寺に足をむけるのがいい。家康の天下となった後にのこされた人生を生きた秀吉の正室、おね(高台院)の思慕の情に溢れた高台寺は豊国神社で大衆の秀吉に対する想いを感じた後だからこそ、それと全く対照的に極めて個人的な、戦国の世で人生を共に歩んできたおねの晩年の心境に思いをはせることが存分に出来るのだから。

『桃山の春』を謳歌した京の庶民たち 豊国神社

『桃山時代』と聞けば誰もが豊臣秀吉を思い浮かべるだろう。日本の歴史において秀吉ほど多く語られてきた人物はいないだろう。

イベントが大好きで派手好み。彼が主催した醍醐の花見や後陽成天皇の聚楽第行幸をはじめとする数々の大行事は絢爛豪華、京の都の人たちの度肝をぬいた事は想像に難くない。

『劇場型の陽気な天下人』であった秀吉は民衆にも好意を持って受け入れられたはずで、それが証拠に秀吉の死後すぐに朝廷が彼に豊国大明神の神号を与えた。

これは京都の長い歴史上でも画期的な事であったはずだ。日本では「八百(やおろず)の神」という言葉があるほど、古来より柔軟に神を作り出してしまう土壌がある。人であっても神として祀られる事もなかったわけではない。ところが、ほとんどの場合、そして京の都では特にそうであったのだが、その理由としては無念の死を遂げた死者の「怨念」「祟り」を鎮めるためだというのが京都らしい。

ほとんどの場合、怨嗟の声を上げて祟るのは時の政治敗者たち。古くは桓武天皇によって藤原種継暗殺嫌疑をかけられ憤死した早良親王を祀った崇道神社や、あまりにも有名な菅原道真を祀った北野天満宮など京都中が実は怨霊たちでひしめきあっているといっても過言ではない。

祟りなど気にしなければよい政治の勝者たちも、京の庶民たちが疫病の流行や落雷事件を怨霊の「祟りだ」と騒ぎだすためやむなく祀ってきたというのが正しいようで、「御霊会(ごりょうえ)」はすでに京都の文化の一部にさえなっている気がする。

ところが秀吉は祟るどころか、朝廷から、また京の庶民たちからもその死を名残惜しむかのように神として祀られた幸せな存在だ。政敵であった徳川家でさえも秀吉本人に対しては死んでなお厚遇を施している。秀吉の冥福を祈るため、おねの発願した高台寺の普請にあたったのは家康配下の大名たちだった。

(大阪城にある秀吉像 2018.3.13)

死んだ後に神の仲間になった秀吉。きっとあの世でも花見や宴に興じているに違いない。この世の庶民たちも、あの世の神々たちも好きにさせる「人たらし、神たらし」に違いない。

豊国神社では宝物館を必ず見たい。京の町衆が秀吉の七回忌に市内で賑やかに踊り舞う様が大屏風絵いっぱいに展開する『豊国祭礼図屏風』(重要文化財)があるからだ。

(国宝の唐門は秀吉が築城した伏見城の遺構と伝えられる)

この神社のある場所は奈良の大仏をしのぐ大きさを誇った大仏殿のあった秀吉の建立した方広寺の境内の一部。

秀吉の七回忌が行われた時、実はこの大仏殿は火事で焼けなくなっていた。ところが『豊国祭礼図屏風』には立派な大仏殿が描かれている。この絵を描いたのは狩野内膳だが、あたりまえのように秀吉の功績を省かずに描いているのが面白い。想像するに、これを描かねば京の人々の反発をうけてしまうと思ったのか、あるいは発注者(おそらく豊臣家の誰か)に慮(おもんばかっ)たのか…

ともかくも、先の「怨念の祟り」であれ、「陽気な天下人を偲ぶ」のであれ、京都はまことにもって庶民の想いが為政者を動かしているのだな、とつくづく思う夕暮れの中、豊国神社を後にしたのだった。

『桃山の春』に出会う場所 高台寺

秀吉の死後しばらくで、大阪夏の陣をもって豊臣家は滅亡した。豊国社は新たに天下人となった徳川家康によって廃絶となる。北政所はその後剃髪し、出家して「高台院」となった。

世は徳川の天下。天下人が自分の夫から義理の息子(秀頼)に引き継がれることなく家康に代わって後、高台院は家康の死後さらに8年も生きた。秀吉を見送ってからの年月は決して短いものではない。天下の移り変わりを見るに彼女はそれをどう受け入れていたのだろうか。

高台寺は、高台院の心の中を、時代を遡って感じる事が叶う唯一無二の場所だと思う。

絢爛豪華な伏見城の遺構であった豊国神社の唐門を後に、この寺の方丈に足を踏み入れる時、いつの間にか今まで聞こえていた賑やかな祭囃子の音がフェードアウトし、静寂がとって代わる。

まるで全ての音が白砂の中に吸い込まれてしまうような感覚。華麗な天下人・秀吉の人生も、それを彩った賑々しいまでの音とともに吸い込んでしまった美しい庭園。

「ユメノオワリ」の切なささえ感じてしまう。

こんな感傷に浸れるのも、豊国神社を訪れた後だからだ。

そして、ここはもう庶民が陽気な天下人を偲ぶ場所ではなく、おねの、いや高台院とあの世にいるはずの秀吉との極めてプライベートな空間と行って差し支えない。

枯山水の方丈庭園の正式名は波心庭という。

ここにある見事な枝垂れ桜はすでに江戸時代にも知られていたようだ。安永9年 (1780) に刊行された名所図絵本の先駆けである『都名所図会』には、

『当寺は大木の桜数株ありて妖艶たる花の盛りは園中に遊宴を催し、春を惜むのともがら多し』

との紹介がある。

この桜は数えて4代目。

方丈の中から見る桜は襖で縁取りされた一枚の絵だ。まるで滝となって流れ落ちるかのように淡いピンク色の満開の桜。この年 (2018) の桜は実に見事だったと聞く。

実はこの桜の隣にはもう1本しだれ桜があったのだが2009年に突然枯れてしまった。残念ではあったが、1本だけになったこの樹の勢いは逆によくなり見事な枝ぶりになってきた。

2本隣り合って互いに花を競っていたうちの1本が枯れた後、残った1本が見事に咲き残るとは、まるで秀吉・おね夫婦の人生をなぞっているようで面白い。

 ところで、豊国神社の唐門と同じように高台寺にも伏見城から移築されたものがある。

書院と開山堂とを結ぶ屋根付き廊下の途中にあり、「観月台」と呼ばれているものだ。

高台院は秀吉を偲んでここから月を眺めたのだという。

『人たらし』

桃山の栄華の象徴であった伏見城の遺構がこうして秀吉を偲ぶ場所にそれぞれ移築されたのだが、見事なまでにそこにおさまっている事に関心してしまう。

煌びやかな唐門は豊国神社にあって庶民に華やかりし太閤殿下との日々を思い出させ、観月台はこの世に残した終生連れ添った女性に月を通して自分を偲んでくれよ、と。

遺言したわけではない。死してなお、「人たらし」であったのが秀吉なのだと思う。

鳴かないホトトギスを「殺す」にも、「泣くまで待つ」のにも格別な能力が必要ではない。だが、「鳴かせてみる」には本当の知恵や意思、そして努力が要る。戦国三英傑の中で、秀吉にはそれがあった。でなければ他人を「垂らす」ことなぞ出来まい。

その名前の通り天の下で存分に遊んだ『天下人』は、自分が天に召された伏見城の一部を京の庶民と妻に残すことで永遠の『天上人』になったのだった。

(見事な竹林の道。高台寺には秀吉の時代以降に移築された茶室など他にも見るべきものはあるのだが、ここはシンプルに稀代の戦国武将夫婦を偲ぶためにあえて素通りしています。またの機会に)