山の花の記憶 ①コバイケイソウ

「当たり年」に出会えれば幸運な高山植物の代表格

(写真:槍ヶ岳とコバイケイソウ群落。北アルプス西鎌尾根 2018.7.15撮影)

花には毎年同じように咲くものがあれば、「当たり年」と「外れ年」があって顕著に咲き方が異なるものもある。

ただでさえ花期が短い高山植物は、天気の具合を気にしながら見頃を狙って山の予定を組んで、とただでさえハードルが高い。まして、「当たり年」にとなると年単位で待たなければいけない。

コバイケイソウはそんな高山植物の中でも際立って年による花の差が大きな花だろう。(北アルプス 黒部五郎小舎前の群落。201.7.22)

大きな白い花穂が特徴で、一目でそれと分かる高山植物。大きな群落を作るため、出会えば思わず歓声を上げてしまうはず。

(北アルプス双六池畔の群落。2018.7.15)

双六岳は田中澄江著『花の百名山』でもコバイケイソウ咲く山としてとりあげられている。

「当たり年」の周期も山域によって違うようだが、少なくとも3~4年(尾瀬)、長いと6~7年の周期で咲く山もあるようだ。

ところが2018年、2019年のように2年連続で北アルプスのコバイケイソウは「当たり年」だったようで(参照:例えば槍岳山荘スタッフブログhttps://www.yarigatake.co.jp/minamidake/blog/details/2595/)、一筋縄ではいかない。

ウェブで調べてみた、ここ10年の各地でのコバイケイソウの当たり年は2005年、2011年、2013年、2018年、2019年…

うーん、規則性があるとは思えない。

「これぞアルプスのお花畑」

アルプスと聞いて思い浮かべる花の圏谷はこの写真のような風景ではないだろうか。穂高を望む風景が、コバイケイソウの群落がある事でアルペンムードがさらに高まる妙を見せる(北アルプス 抜戸山稜線 2018.7.15)。

2018年の夏は各地からコバイケイソウが当たり年だとのニュースがあちらこちらから聞こえてきていた。北アルプスはもとより、中央アルプス千畳敷、白山、車山(霧ケ峰)、尾瀬はもとより東北の月山などからも「今年はすごい」との声が届いていたようだ。

 

(北アルプス 弓折岳稜線より穂高連峰をバックに咲くコバイケイソウ 2018.7.15)

2018年は暖冬で春の花が咲きだすのがとても早く、ツツジ科の花はどれも素晴らしい花付きだった。季節が早まるこのような年に心配なのが、寒の戻りによる遅霜で花芽がやられてしまう事だ。幸いにもこの年はそのまま暖かいまま梅雨入りし、これまた記録的に早い梅雨明けで、北アルプスでは一斉に高山植物が開花した。

梅雨末期の6月28日から7月8日にかけて「平成30年7月豪雨」(いわゆる西日本豪雨)に見舞われて大雨となったが、翌7月9日には全国的に梅雨が明けた。記録的に早い梅雨明けになり、次の週には北アルプスへ入った。

この時は雪解け後真っ先に咲きだすハクサンイチゲにまじって、コバイケイソウも大きな白い花をつけた大群生を見る事が出来た。

翌週には黒部源流を歩いたが、コバイケイソウの花はまだ咲いていた(おそらく8月までは持たなかっただろうとは思う)。

(北アルプス太郎平。咲き出したニッコウキスゲとともに咲く。背景は水晶岳・鷲羽岳・三俣蓮華岳など黒部川源流の山々。2018.7.22)

花芽が育つ時期に寒の戻りなどで芽がやられてしまうのがその年の開花状況に大きく影響するが、特にコバイケイソウの花は顕著だ。近年、暖冬傾向で春の到来が早く花芽が早く出る分、遅霜などの影響を受けやすくなる期間はそれだけ長くなる。

また、花が咲いても山の天気が悪ければ写真のような光景にはお目にかかれない。2年連続の当たり年になった2019年の夏のアルプスは8月上旬まで天候不順が続いた。残念ながらコバイケイソウの花を楽しめた好天の日は限られたようなのだ。

「幸運」も味方につけないと、この風景にめぐりあえるのは難しいのかもしれない。

さて、今年の夏はどうだろうか…?

漢字で書くと「小梅蕙草」

写真を見るとよく分かるのだが、花穂を構成する小さな花の一つ一つが「梅の花」に似ている。また葉は「恵蘭(けいらん)」に似る。同じく平地に咲くバイケイソウも同じ特徴をもつのだが、コバイケイソウはそれと比べると少し小ぶりであるのがこの花の名前の由来。両性花を持つ真ん中の穂だけにしか実は出来ない。

 

(北アルプス弓折乗越にて。2018.7.14撮影)高山植物の多くは厳しい生育環境に耐えるために地面にへばりつくように低い背丈のものが多いのだが、コバイケイソウはたいへんに大柄で1メートルにもなる。

(北アルプス 弓折乗越にて。西鎌尾根の籾沢岳をバックに咲くコバイケイソウの花 2018.4.14撮影)

ブナの実が豊作になるのもコバイケイソウと同じような周期だと聞く。つまりコバイケイソウの花が豊作の年にはブナの実も豊作ということ… 何故か不思議な一致なのだ。人の理解が及ばない自然の営みには驚かされるが、これほどの群落の花が一斉に短い期間に咲くにはかなりの栄養分が必要になるはず。

コバイケイソウもブナも数年にわたり養分を蓄えて一気に花咲かせているのだろうか?

(中央アルプス 南駒ヶ岳南峰直下のお花畑。2015.8.1撮影)

ところで、これだけ大きな花穂で目立つコバイケイソウ… おもわず近寄って匂いを嗅いでみたりしたくなるはず。お試しあれ… きっと後悔するハズ(笑)。決していいものではない。

また、葉も茎も根も含めて全草に強い有毒アルカロイドを含むので、決して口にしてはいけない。一口でも口にすれば、嘔吐、めまい、しびれ、下痢などに苦しむことになる。若葉は山菜のウルイ(オオバギボウシの若葉)に似ていて食中毒がニュースになる事もある、結構怖い植物なのだ。

【コバイケイソウ】

ユリ科シュロソウ属

和名「小梅蕙草」

本州中部以北と北海道に分布。花期7月中~下旬。

山地、亜高山帯の草地・湿地に生える多年草。

ハクサンイチゲなどと並び初夏の高山植物の代表格。

田中澄江『花の百名山』60 双六岳

『新・花の百名山』24 会津駒ケ岳

花言葉「遠くから見守る」

 

京さんぽ ②熊野若王子神社

『旅をするという ”日常” 』が戻る日

人が旅に出る大きな理由は「情熱」ではないだろうか? コロナで外出自粛が呼びかけられている昨今でも初詣や参拝で神社に出向く人は多い。宗教的意義のある外出は単なる遊興目的以上に積極的であるのは、イスラーム社会の聖地巡礼などに例を求めずとも明らかだ。

人の命を脅かす未知のウィルスの出現は、むしろ人が神を求める人々の中の信仰心をより激しく突き動かしたに違いない。妖怪「アマビエ」が新型コロナ鎮静化を願う人たちによってSNSで脚光を浴び、瞬く間に「時の人」いや、「時の妖怪」になって広く知れ渡ったのも同じ理由だろう。

この先、コロナウィルスによる社会への影響がどう変わっていくのか分からないが、「コロナ後」であろうと「WITH コロナ」になるとも、いずれ人々の中にある抑えようもない「情熱」によって皆が旅に出る日常は戻ってくるはず。

であれば、その情熱をかきたてる大きな要素である「信仰」「信じるもの」を訪れるために、目的地となる神社や寺院、それにつらなる参詣の道にはもっともはやく人の賑わいが戻ってくるのではないだろうか。

日本最初の『GO TO トラベル』だった熊野詣で

誰もが耳にしたことのある『GO TO トラベル』。コロナ禍で打撃を受けた旅行・観光業の需要喚起のための政策キャンペーンで、国の支援によって旅行費用の何割かが補助される仕組みになっている。

歴史上、この国には何度か『旅行ブーム』というものが起こった。近くはこの「GO TO トラベル」事業、少し遡ればJRが力をいれた『そうだ、京都』などのキャンペーン。1965年には海外旅行パックツアーの『ジャルパック』販売されたりと戦後一時は海外に目が向いた時期もあったが、その後国内旅行も見直され、旧国鉄の『ディスカバージャパン』『るるぶ』などの流行語を生みだす各種キャンペーンが世に溢れた。

日本人の旅行好きも、歴史をたどれば江戸時代の庶民の間に大流行した伊勢神宮への『お伊勢参り』(弥次喜多の東海道膝栗毛で知られる)、さらに平安時代にまで時計の針を戻せば、『熊野詣で』に行きつく。

平安貴族にとって『熊野』は極楽浄土そのものだった。『蟻の熊野詣で』と称されるほど平安貴族たちは熊野へ通った。その理由は一にも二にも「信仰」だろう。釈迦の入滅後1500年後には仏教が廃れ世は大いに乱れる… 当時の世は藤原氏の栄華が下り坂となり、藤原純友や平将門の反乱など政治が不安定さを増している状況を釈迦入滅後の「末法の世」に重ね合わせた終末論的な思想が、身分の上下を問わず人々の間に蔓延していた。そう、『末法思想』だ。

京都から300Kmの南の果てにある熊野。観音菩薩の降り立つ補陀落山に例えられた奥深い紀伊の山々の向こうは黒潮の太平洋から日が上がる浜が広がる天照御神の土地… 熊野の地は当時、極楽浄土そのものとみなされたのはまさにこの自然が理由だろう。

そしてこの地は、「末法の世」におびえ、極楽浄土を心のよりどころとする浄土信仰の高まりとともに京の貴族たちにとって憧れの地へとなっていった。

新型コロナの蔓延で鬱屈した昨今の世の中と、平安末期。時代は違うが似たような社会情勢に思う。平安貴族たちにとっては、当時の法皇たちが率先して行った熊野詣は、同行を求められた彼らたちにとっては、旅の大義名分を得た、一種の『GO TO トラベル』キャンペーンへの参加でもあったのだろう。

京の熊野詣ではここから、なぜこの神社が起点なのか?

今回訪れたこの小さな神社の名前は『熊野若王子神社』。京都に通いなれた人にも「どこ、それ?」と言われるかもしれないほど知られていない。

南禅寺から銀閣寺へ通じる『哲学の道』の起点で、紅葉で名高い禅林寺(別名:永観堂)の近くにこの神社はある。

神社の背後には那智大滝を模した滝があり、禊(みそぎ)を行ってから遠い熊野へと出発したという。

こんな場所に熊野を模した神社があるのは、自分の住んでいる場所の近くに熊野を欲した人物がいたからだ。その人物とは『後白河法皇』。

教科書にも出てくるこの法皇は源平の時代に武士として頭角をあらわしてきた源氏・平氏を手玉にとって院政を行った人物。源頼朝をして『日本一の大天狗』と言わしめたとらえどころのない、いわゆる「曲者」で、結果的には多くの人々の運命に大きく関わった歴史上の大物。

この神社、実は禅林寺(永観堂)の鎮守社。後白河上皇の勧進とも、禅林寺を創建した真紹の勧進ともいわれているが、ここでは後白河説をとりたい。

訪れた時は桜の季節で、見頃を少し過ぎた頃。「哲学の道」沿いに銀閣寺から南禅寺まで散策の途中に立ち寄ったのだった。

当時は足利義政が花見の宴を行ったほど有名な花見の名所だった。なるほど、今でもこじんまりとしてはいるが、桜が綺麗なわけだ。

写真では見づらいかもしれないのだが、「云」の狛犬にある角が「阿」の犬には何故か…ない?

いやいや、そうではなく角があるのは『狛犬』で角がないのは『獅子』と呼ぶのが正しいのだが。

変った名前の神社であるが、神仏習合の神「若一王子(にゃくいちおうじ)」は天照大神(アマテラスオオミカミ)と同一視され、紀州熊野の那智権現だったと聞けば納得がいく。

都から300Kmも離れた極楽浄土へは往復するだけで1か月はかかった。そう度々行けるわけもなく、そのために後白河法皇は熊野権現を自分の住まい(法住寺)近くに勧請した。なるほど、『熊野の参るには紀伊路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し』と上皇の編纂した『梁塵秘抄』の中にも記されている。

NHK大河ドラマ『平清盛』で松田翔太さん演じる後白河法皇の『遊びをせんとや生まれけむ』のセリフを記憶されている方も多いはず。法皇は稀代の「遊び人」でもあった。いわゆる ”男女のあさましいなりわい” なども含め後白河法皇は長い人生をありとあらゆる遊びに費やしたといえる。政治の世界で百戦錬磨の武士たちを手玉にとったことでさえ、遊びの一環であるとさえ思うほどだ。

不思議と彼の生き方の中にはいわゆる「悲壮感」がないのだ。「復讐」「怨念」といった長く皇族につきまとう忌まわしい言葉からこれほど遠い人物もあるまい。

そして『熊野詣で』は後白河法皇にとっては最高の「遊び」であったに違いない。

法皇が生涯に熊野詣を行った回数は実に34回!

記録はないが、ほとんどすべての熊野への旅はこの神社から始めていたに違いない。

この仏像には見覚えがあった。国宝好きならピンとくるはず。

そう、奈良国立博物館の「なら仏像館」でよく見かけるあの柔和な「薬師如来坐像」は、ここに安置されていたのだ。

(2021.8.29 『特別展 奈良博三昧 -至高の仏教美術コレクション- 』奈良国立博物館 (展示全作品が撮影)に出展されていた)

明治初めまでこの像はここに安置されていた。平安時代9世紀ごろの作である像だというから、後白河法皇が熊野へ旅立つたびに禊を終えてからこの薬師如来に道中の安全を祈願していたかもしれない。

そんなことを想像するのも楽しい。

『遊びをせんとや生まれけむ』- 人の本質をついた後白河法皇の言葉

先の松田翔太さん演じる後白河法皇の『遊びをせんとや生まれけむ』のセリフをもう一度思い出す。

『遊びをせんとやうまれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ揺るがるれ』

(遊びをしようとしてこの世に生まれてきたのであろうか さては戯れしようとして生まれてきたのであろうか 遊ぶ子らの声を聞くと身体が動くのだ)

熊野へ旅立つ時、この神社で禊を終えた上皇の目はまるで子供のように輝いていたに違いない。これから何度目かのときめく非日常の旅がまた始まるのだ。

遊びの達人であった後白河上皇。新しい『遊び』を始めるのが常にこの神社であったと思うと、今を生きる現代の日本人こそ、ここで古の平安の旅に思いをはせてもらいたい。不安がとりまく今だからこそ、子供のように無垢で旅そのものを楽しめる『遊びをせんとや生まれけむ』の心でしなやかに世を生きていきたいものだ、と思う。

(2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも後白河法皇が登場する。演じるのは西田敏行だということだ)