名古屋一番の賑やかな街といえば、今や大須だ。
昔は
「ちゃっと、メーエキ(名古屋駅のこと)に行ってくるで」
とか、
「栄に買い物に行くで、ついでに松坂屋によってこやぁて」
と言ってた名古屋人が、今は
「大須が一番エエとこだで」と、わんさか押し寄せる場所になってしまった。
10年ほど前までは、洗練されたイメージはなく、古ぼけた商店街のイメージだったのになぁ。
でも、この変化は嬉しい。
元来から名古屋人の悩みは、これという名所が市内にはなく、ゲストをおもてなしする場所に欠けるというものだった。
今は大須がある。
東京・浅草のように外国人にも喜ばれる要素がたっぷりだ。
大須という、古くからある場所が再び輝いて人をひきよせるようになったのに一番驚いているのは意外にも地元、大須の人たち。
私は身体のメンテによく大須の整体に行く。
馴染みの整体師で、アニキと呼んで久しいのだが、大須で開業してもう40年近い。
整体師のアニキによると、最近の大須の人たちは「ヨソもの」に寛容なのだそうだ。
アニキによると、それが最近の大須の活性化の理由なのだという。
ふむふむ、それは面白そうな話だ。
「ナゴヤのひとはヨソもんがきらいだぎゃあ?」「そんな事にゃーて」
アニキによると、昔から名古屋の人たちは閉鎖的で、ひねくれていたという。
天下をうかがう猛将たちが夢を見て縦横無尽に尾張平野を駆け回った戦国時代。
信長、秀吉をへて家康がまとめ上げた街が名古屋の基本だ。
あくまでも西の豊臣へとニラミを効かせる場所だというのが大前提にあり、尾張徳川家はこの地にあれども天下人を輩出することなく時の将軍には何度も反発した。
徳川宗春はもっとも「トガった」尾張の藩主様として名が知られている。
当時の将軍は徳川吉宗。
質素倹約で幕府の財源危機を乗り切ろうとした。
宗春は逆に祭りを好み、文化を愛した。そう、大須こそがその中心だった。
吉宗が右といえば宗春は左。
江戸があちらなら、名古屋はこちら。
名古屋はどうも東西の都、京都、江戸に対してのひねくれ度合いが多分に見て取れるのだ。
「尾張を制するものは天下を制する」とは言われたものの、誰もこの地でまつりごとを行うことはなく、ただひねくれていただけなのだろうか。
「名古屋だからねぇ」
「だって、名古屋人だもんなぁ」
今でも名古屋の人たちは言葉で名古屋を語る時はこんな感じだ。
「どうせ」とか、「だって」と言う言葉がすぐ出てくる。
名古屋人同士の間でも傷を舐め合うような会話がよくある。
京都のように天子様がいるわけでもない。将軍様も江戸だ。「天下の台所」大阪のようにモノが集まった訳でもない。
いつの世も名古屋は中心ではない。この地から出た3人の英傑もこの地を出て別の場所に居を構えた。
「どうせ」「だって」の裏側にはなんとなく「俺たちなんて、どうせ他からは見てもらえないんだ」という言葉がのぞく。
「ヨソもの」が嫌いなのではなく、他をひがんでいるのだ、というのが歴史からみた名古屋人の正しい解釈だ。
ほどほどに田舎、ほどほどに都会。実は居心地よい。
大学でもほとんどが東海地方のいわゆる「地元」出身が多かった。
就職先もそうで、「地元」勤務を希望する。
かくいう自分は名古屋から就職して東京の会社に入ったのだが、何年かして結局、地元に戻ってきた。
まだバブルの名残りがあり、ジュリアナ東京が人気を集めていて会社の同期で何度も遊びに行ったが、いつも「何か東京は違うなぁ」と感じていた。
確かに日本一の大都会は面白い事も多かったのだが、結局その時は素直に馴染めなかったのだ。
名古屋に戻り感じたのは、全てが「ほどほど」だという事だった。
目に入る人や車の量がほどほどなのは、大都会のようなストレスがない。
また、人と会うことが少ない田舎のような寂しさもない。
その「ほどほど」感がなんとも心地よかった。
ほどほど都会でほどほど田舎なのが、名古屋なのだ。
英傑たちが名古屋から出て行ったお陰で、逆にほどほどの実に住みやすい環境が生まれた。
NO.1に対してはひねくれているが、居心地のよい土地のお陰で名古屋人は今まで身内でまとまり安穏と生きてきたと思う。
ところが、いよいよ長寿社会となり少子高齢化が進んだ結果、名古屋にも他の都市に見られる空洞化が押し寄せてきた。
追い込まれ、発揮されたジモト力。
そんな名古屋 の大須が見事に「シャッター商店街」から脱却したのは、身内意識を脱却し、「ヨソもの」を積極的に受け入れたからだ、と整体のアニキは言う。
「今もねぇ、結構お店が変わるんだよね。でも、すぐに新しいテナントさんが入るんだよね」
「え、それが本当なら大須では商売が長続きしないって、逆に悪い噂で廃れていくような気がしますけど…」
「それがね、違うんだよな。
「テナントが居なくなっても直ぐに埋まる仕組みがしっかりと出来ているんだよ」
「そりゃ、すぐに店じまいしてしまうケースもあるけど逆に大須でまずアンテナショップを出して商売当たるかどうか探るってのもあるんだよ」
「大須で当たれば、もっと大きな規模で別の場所で狙った店を出すのさ」
閉鎖的な土地と見られていたから、ヨソの人たちには名古屋でどうやって商売始めたらいいのか、手探りな人が多かった。
「そこで、大須の商店街は団結して、空いてしまった店に積極的にヨソから来る店に場所を斡旋して上手く行くまで面倒見たりしたんだよ。
ヨソから来た店でも応援して皆んなで活性化して行こうという訳。
今でも空きの出たビルが直ぐに埋まるよう、不動産業者や土地者、そして商店街がネットワークを組んでかなり細かく情報をまとめているんですよ」
どこかで見たと同じサクセスストーリー
実に見事だ。
大きな資本を招いたわけでもない。
行政がお金をかけたわけでもない。
大須の再生は、そこに住む人たちが知恵を出し、汗をかいて作り得たものだと理解した。
一旦軌道にのれば、今度は逆にヨソから人やモノがやってくるようになる。
ヨソ(外)の力を活用して、つまるところ身内(内)がハッピーになる。
普段は見事な連帯感を維持して、なかなか外からはわかりづらい。
しかし、一方では危機が高まれば、しなやかに外を受け入れ、それに学ぶ。
さらには自分で見事に吸収してしまう。
これ、何かに似てないか…?
そう。東海地方の名だたる企業がたどってきた成功と構図が全く同じだと気づく。
自動車、航空機産業など、世界的に有名な製造業がいくつもある東海地方。
かつては身内でかたまり一丸となり成長を勝ち得ていったが、世界規模の競争時代になると、柔軟にヨソとの交わりを重ね、技術を受け入れ、また提供することで危機を乗り越えてきた。
今や世界に冠たる「ものづくり」で名をはせる名古屋を中心とした東海地方。
あえて外からの刺激を入れて、身内の意識をわ高く維持する、それは例えると、そう、『わらしべ長者』だ。
大須の奥ゆかしさに名古屋人の気質を見た
大須が再生に成功した理由は、名古屋人の気質によるところが大きいと思う。
ちゃんとソトを見ている。バラバラにならず、団結している。
ひねくれているのは、その力を隠すためにカモフラージュしているのだとさえ思える。
機が熟した時には一気にウチに溜めた力を吐き出す。
大須の成功を世界的企業になぞらえる別の視点で見てみると、その類似性に驚かされた。
ここに、これからの時代を生きぬくヒントがあると思う。
ウチとソトを理解し、柔軟に対応する。
芯はウチなれど、ソトの世界を柔軟に動く事が出来る。
ローカル(local)でありながら、グローバル(global)つまり、『グローカル (glocal)』だ。
人、モノなどを考えるに、自分では大須の将来像として頭に描くのは、ウチの力を利用してのアピールにより、外国人で賑わう東京・浅草のような “ソトのソト” からのインバウンドの取り込みではなかろうかと思う。
でも、名古屋の人って、奥ゆかしいんだよなぁ。
だから、冒頭に書いたように、大須の再生に一番驚いているのが大須に住むアニキたちという話になるわけだ。
………
「アニキ、英語の方はどうなの?」
「いや、ケニーさん、海外からこんなところへわざわざ人は来ないってさ。名古屋なんか素通りして行くって。
まぁ、英語はねぇ… 多少は。
アイ アム ジャパニーズ・マッサージ・マスター ! ノープロブレム! 」
… やっぱアニキも名古屋人だで。安心しとってええわっ!