携帯のスイッチをオフにする。
ノートパソコンの類いは家やオフィスに置いてきた。
荷物はコンパクト、身軽に動けるよう余分なものは持っていかない。
服も最低限。
いつも海外出張で使っている大サイズのリモワ。
今回は出番がなく、ひとまわり小さなサイズでよさそうだ。
そして、手には一冊の本。
椎名誠の『熱風大陸』。
向かう先はオーストラリアの広大なアウトバックの原野。
2週間の旅程は… 宿だけ予約して、あとは風任せ、その日の気分次第。
時間が無限にあると思っていた学生時代のような感覚の旅に出たのは、ずいぶんと久しぶりでした。
『ホンモノ』のオーストラリア
椎名誠の『熱風大陸』は、作家である彼と友人たちが四輪駆動車でオーストラリア大陸を縦断する旅行記。
椎名さんの愛称は「シーナ」。独特のユーモアをまじえた、飄々として気取らない旅のスタイルそのものの文章に惹きつけられ、何度も読み返したのが、この本。
最初に手に取ったのは、もう30年も前のこと。
海外に一度も出たことのなかった20歳の大学生の時でした。
口絵のカラー写真で見た、赤茶けた『アウトバック』とよばれるオーストラリア大陸中央部の荒涼とした大地の印象は強烈でした。
その中を真っ黒に日焼けしたシーナたちが乗った車が、砂塵をあげて疾走する。
大地の中に豆粒のように写っているトヨタランドクルーザー、その後に延々と伸びているタイヤの跡は大陸の大きさを感じさせ、そこにいきたい衝動を駆り立てました。
本を買い、ページをめくり読んで、飽きるほど何度も眺めていた写真。
その2ヶ月後、なんと僕はそのアウトバックに自分の足で立っていた。
シーナの見た風景、シーナが感じたであろう風、焼ける砂の匂い …
本のページを通して憧憬の彼方にしかなかったものを、目で、耳で、五感でじっくりあじわえた至福の瞬間。
『全部、ホンモノだ』
シーナの本が僕の背中を押した、それが僕にとっての初めての海外の旅だった。
タイムラグの無い世界
そして今。
再び30年前と同じアウトバックの台地へ旅立っことに。
その頃に比べて、地球はほんとうに小さくなった。
いや、地球そのものはもちろん小さくなったわけでないのですが。
海外旅行が身近なものとなり、航空路線も世界中に巡らされる世の中になりました。
縁遠かった中国やロシアなど共産圏にも旅が出来るようになった時代の変化もあるでしょう。
でも、この感覚の変化が意味するところはもっと違う何か。単に遠い近いではない、別の感覚のような気がします。
これは一体何だろうか?
それは、便利さと引き換えに失われていく未知の世界の損失感だと気がついたのです。
地球上のあちらこちらで起きている無数の出来事、人が交わしている会話、つぶやき…
過去、テレビの画面や本を通して感じた『距離感』は今とは比べるべくもない程に遠い場所の事だと感じていました。
それが、今はこちらから探す必要もほとんどなく、ボタン一つで簡単に入ってくる。
地球規模で全てがネットでつながれ、ありとあらゆる情報が地球上を瞬時に駆け巡る時代。
スマホがあれば片手で瞬時に知りたいことがすぐに検索出来ます。
30年前、シーナの旅に触れる事が出来たのは、彼の本を手に取ったからですが、その本が書店の店頭に並ぶまでの時間は長く、執筆・製本・出版と何ヶ月もかかっているはずです。
それはリアルタイムの情報ではなく、本を読んでいるのと同じ時間、シーナはもうオーストラリアにはいない。
現在はどうだろうか。
今、シーナと同じオーストリアのアウトバックの荒野に立った僕は、瞬時にそのことを友人たちに知らせる事だって出来る。
いや、ネットに投稿すれば、ケニー三浦という人間がそこに今、いるんだ、ということは誰でも知る事が出来てしまうのです。
そう、これは『タイムラグ』のない世界。
時差を感じる事がない事から来る感覚なんだ。
『旅』が旅でなくなった今。
かつては耳にすれば、ロマンさえ感じた『旅』という単語。
それは、人が旅に出ている、という事実があるだけで、頭の中でいろいろな想像力を駆り立てるからだろう。
「あの人は今、何を見ているのだろうか?」
「もう1週間、そろそろ次の街についたころかな」
「何食べているんだろうなぁ。日本の食事が恋しくなってくるころだろうね」
… そして旅から戻ってきた人から語られる言葉。
日焼けした顔、笑うたびに見える白い歯。
『いい旅だったよ』
何を語っても、ぐいと身を乗り出して聞きたくなる、旅の話。
戻ってきた人は誰もかれもが、まぶしかった。
今は?
『タイムラグ』のない現在、旅に出た人はいとも簡単にセルフィーをSNSに投稿する。まるで、隣の街から送ってきているみたいだ。
(うん、楽しそうだねぇ、何よりだよ。よい旅を… よかったね)
もちろん僕もそう、思います。
でも…
でも… そこには受け取る側の「ワクワク感」はほとんどない。
旅に出ている人が見ているであろう風景を同じ時間で共有しても、それをスマホの画面で見ている僕は、都会の雑踏の中。
残念ながら、楽しそうでよかったと思いさえこそすれ、それは単に「確認」作業のようなもので、シーナに憧れたあの瞬間のような沸き立つ憧憬感は、残念ながらないのです。
もう一つ残念なことがある。
距離と時間をいっきに飛び越えて届く写真や言葉は、近くにいようと遠くにいようと同じ、ボタンひとつで瞬時に共有出来る。
そこには、その人がどう旅をしているのか、想像をする時間と楽しみすら与えてくれません。
そして、旅をしている本人も、戻ってくる返事にさらに返信するために時間と気を割いています。
旅先のすばらしい瞬間に感じたことをいちはやく人に伝えたい気持ち、よーく分かります。
でも、じっくりとかみしめて、味わって、すこし時間をかけるとより深い伝え方が出来るものです。
素晴らしい体験をしているのにそれを数分とはいえ中断し、手短かにSNSを通じて投稿する。それを見た相手も想像する間もなくこちらが何を見て、体験し、考えているのかあっという間にわかってしまう。
なんだか、問題用紙を読んでいる最中に、もう解答用紙が配られてくるようなものだ、と思いました。
しかもその解答も◎×だけで解説がないもので、味わう間もない。
『旅』する人はもちろん旅を存分に楽しんでほしいと思います。
ですが、そのよき体験を人に伝える楽しみは、またそれを聞く相手にとっての楽しみでもあります。
お互いの想像力を存分に発揮する時間をかけるほうが、かえって旅の楽しさが増すものだと感じるのですが、どうでしょうか。
地球が狭くなって未知のものがどんどんなくなっている時代。
『旅』が本来の旅 (Journey) ではなく、旅行 (Travel) から移動 (Trip) へと変わってしまった現代。
だからこそ、本来の『旅』がより価値ある貴重なものになっているはず、そんな旅をもう一度したくて、オーストラリアの原野に呼び寄せられたのだろうか。
目の前に広がるなぁ~んにもない荒野。
こんな場所でもSNSに投稿する事も出来てしまう環境がある。
そんなネット時代の『地球の歩き方』について、より旅を味わうために引き続き書こうと思います。
続きはコチラ⇒ 『ネット時代の地球の歩き方』②
★30年前のオーストラリアへの旅の断片(ウルル・エアーズロック)についてはこちらを
⇒『エアーズロック山頂 もうすぐいけなくなる地球のヘソの上から』
★『熱風大陸』(椎名誠)講談社(1988年4月25日発行)