自分の年齢を考える事は日常でもなかなかありません。
ですが、何の前触れもなく自分の身にふりかかった心肺停止という大事件を経て、否が応にも『あと、自分の人生は何年あるのだろうか』と思いました。
人生、80年の時代。
縄文時代から室町時代あたりまで、日本人の、5歳まで生き残った時の平均余命は20-23歳(乳児死亡率が高かったので、平均寿命は14-17歳)。
江戸時代から昭和の戦後直後までは40歳。これが今は倍です。
考えれば、昔の人に失礼なほど、人生を過ごしている… ぜいたくな悩みです。
今はもう、普通の生活に戻り、ドクターからも『日々、健康に気を付けていれば普通の人と同じように変わらない寿命だと思いますよ』との言葉も聞けるように回復しました。
倒れる前は、仕事も多忙、ですが、趣味の登山などで週末も多忙… かなりのスピードで走っていたと思います。
身体は悲鳴を上げていたのかもしれませんが、頭は… まったく気が付かないんですよねぇ…これが。
そんな出来事があって、しばらく自分を見つめる時間を持てて、初めて真剣に考えた事がありました。
それが、冒頭に書いた、残りの人生期間を含めた『時間』についてでした。
しばらく忘れていた、「座右の銘」としている言葉が、その『時間』に関係したものだということを思い出しました。
それは、アメリカ合衆国第32代大統領、フランクリン・ルーズベルト婦人・エレノアさんが、とある場でスピーチとして述べた言葉。
とても有名な言葉ですので、聞いた事がある方も多いかもしれません。
『現在(今)、この瞬間を大切に』
与えられた時間を最大に使って、そこから最大の「幸せ」を得よう、というメッセージです。
ディズニーの映画『カンフー・パンダ』でも、主人公のパンダ・ポーを諭す長寿の亀の師匠がこの言葉を引用していたのが、印象に残っています(さすが、ディズニー)。
この言葉の原典は、1900年代の女流歴史家アリス・モール・アールという人の著書で、エレノアがスピーチに使って世に知られるようになりました。
毎日もらえるプレゼントの使い方
さて、この世に生きている人が皆、均等に、しかも、毎日必ずもらえるというプレゼントの話です。
そう、朝起きると当たり前のように、枕元の時計が時を刻んでいる。
何の疑問ももたず、時計を眺めては身体を起こす。1日の始まりだ。
その1日は24時間。つまり、86,000秒。
『今日(present)』は、嬉しい事に、毎日もらえる、大盤振る舞いのプレゼント。まさに、エレノアの言う『Gift』です。
… でも、この素敵な贈り物にはいろいろな特徴があります。
それは…
うーん、実際の「お金」とは随分違う。
「流動性」がないのです。貯金も出来そうもない。
では、有限であって、無限ではないのか?
いやいや、そうではなさそうです。
時間そのものは「有限」ですが、使い方を間違えなければ『無限』の可能性をもたらしてくれるものです。
使った分を単に無駄にするのが、「浪費」。
使った分と同等の価値のある使い方が「消費」。
そして、払ったよりも大きな価値があるのが「投資」。
同じ使う「時間」ならば、「投資」という使い方をしたいものです。
肝心なのは、その「使い方」に迷ってしまう自分…です。
迷う自分からの脱皮
なぜ、迷ってしまうのだろうか?
考えるに、今まで本当に、時間というものの価値を十分に理解していただろうか?
朝、普通に起きて、変わらない1日が始まっていた以前の自分。
大病の経験を経て、今は朝起きると『ああ、今日も1日が始まる。こんなに嬉しい事はない』としみじみ思うのです。
1日の価値ですら、これほどに喜ぶことが出来る。
いや、時間の「価値」はその尺度とは関係ありません。1年、1時間、いや1秒でも。
その「価値」をかみしめるのに最適なエッセンスを、数年前、アメリカで流布した『時間銀行』というチェーンメールの文章に見る事が出来ます。
どんな尺度であれ、「時間」に価値を見出した人には理由があるのが、ぼんやりと見えてきました。
浪人した学生、未熟児を生んだ母親、そしてオリンピックで銀メダルに終わった人… 彼らに共通するのは、『迷いのなさ』。
迷いから抜け出している人は「時間」に大きな価値を見ていると思うのです。
「今、オレは何をすべきなんだろうか…」
「私って今まで何のためにこの年月を過ごしてきたのだろう?」
神様からの86,000秒のプレゼントを1日で使い切り、それを「投資」にするのにはコツが必要なようです。
だめパンダもカンフーマスターになった
ここで、再び映画『カンフー・パンダ』。
カンフーなんて今までこれぽっちも修行してさえいないパンダのポーに、亀の老子はこう言葉を続けました。
『あきらめる? あきらめない?
君は”いままで” と “これから” を心配しすぎているんですよっ!
分かりませんか? 昨日とは過去のことで、明日は未知のこと。今日はもうけもものだと思わないきゃ、ね (笑)』
ここで… いろいろなものが繋がった気がします。
まず、『決める』。
そして、やってみよう。
よく、「あの時の判断は間違っていた」「今から考えると、判断をあやまったために、今こうなっているのではないか」と振り返って後悔する。
でも、『決断』は『判断』とは違う。
たった1文字だけなのに、この違いは天地ほど大きいと思います。
迷うことに時間を費やせば費やすほどに、より不安の少ない、安心な方向へと向かってしまいます。
そして、多くの場合、最終的に自分が選ぶ選択肢は、一番最初に直感的に頭に浮かんだ答えであったことがほとんど。
でも、それに気が付いた時には、周りの状況がすでに逆の方向に動き出していて、反対に自分は身動き取れなくなっている…
こんな経験、あるはずです。
そもそも、『ない』と思っているほどわずかで貴重な時間こそが、もったいないじゃないですか (笑)。
でも、『決める』ことは、無理をする事ではありません。
やっていて、楽しい事でないものは、自分が本当にやりたい事ではないのでしょう。
自分が「楽しい」と思う事を、まあ10年もしていれば、たとえ『遊び』といえども上達してしまうものです。
『1万時間の法則』は正しいのでしょう。
また、上達するばかりか、同じ趣味、趣向の人たちと自然に交わる機会が多くなり、いつしか新しい友人が出来ることも、素晴らしい人生経験になります。
あせらない、あせらない。周り道もいいものだ。
最後に、同じくエレノア・ルーズベルトの言葉をもうひとつ。
『人の生き方をいちばんよく表すのは、言葉ではない。
それは、その人の「選択」。つまり責任なのです』
自分の残りの人生に責任をもつ、強い覚悟を感じます。
自分にも、もう迷いはありません。
えっ、意識を失って倒れてからの1年、身体を休めていたこの時間は無駄じゃなかったのかって?
『ワインを飲んでいる時間を無駄だと思うな。
あなたの心はその間、休養しているのだから』
(ユダヤのことわざ)
回り道して、正解だったのかも… ね。