亡くなった志村けんさんの代表的ギャグキャラクター
『変なおじさ~ん、だから変なおじさ~ん ♫』
誰でも一度は聞いた事があるはず、志村けんさんによって演じられた『変なおじさん』は一世を風靡したキャラクター。「志村けんのだいじょうぶだぁ」に毎回登場するたびに大笑いしたものだ。
出てくるパターンは決まっていて、円型ハゲでピンクのパジャマに腹巻といういで立ちでどこからか現れては美女にちょっかいを出し、周りにバレて誰だお前は、と詰問されると「そう、私が『変なおじさ~ん』です」といって踊りだした後にオチがついて全員がズッコケる、というコントだった。
この独特の『変なおじさ~ん』の節まわしが頭に残っている人は多いだろう。志村さんのキャラの演じっぷりも見事なれど、この歌がまたピッタリと会ってコントと一体化し、志村さんをみるとこの曲が頭の中で流れてくる人もいるのでは? ご本人も『変なおじさんは自分の分身、願望』だと生前語っていたそうで、自伝エッセイのタイトルにもなっているほど。
笑いの天才だった志村さんがゼロから考えて作ったキャラクターと思ってしまうのだが、知る人は知っている元ネタ、それが『ハイサイおじさん』という曲。
陽気な元ネタ、『ハイサイおじさん』は沖縄ポップスの名曲
この記事を書こうと思ったのはちょうど今、通っている三線教室でこの曲を習いだしたからという単純な理由。
でもこの曲、実は沖縄の音楽シーンを一変させたオキナワンポップスの古典的名作。当時沖縄は本土復帰の年(1972年)、沖縄といえば音楽といえばローカルな民謡しかない時代に最新のポップスを混ぜ込んで(沖縄流に言えばチャンプルーして)いきなり本土を巻き込んでのヒットを飛ばしたお化けソング。既成の音楽ジャンルを飛び越えて耳に入ってくる斬新なリズムに乗って流れてくる歌詞もまた沖縄方言(うちなんちゅ言葉)と内地(本土)の言葉のチャンプルー。作詞作曲は今ではレジェンドとなった喜納昌吉、曲の発表当時まだ高校生だったというから驚きだ。
今では甲子園のアルプススタンドでも頻繁に演奏されるメロディーなので、聞けば「ああ、あのメロディーね!」と分かる人も多いはず。
『ハイサイおじさん、ハイサイおじさん
昨日(ゆうび)の三合びん小(ぐゎ)残(ぬく)とんな
残(ぬく)とら我(わ)んに分きらんな
ありあり童(わらば) いぇー童(わらば)
三合びんぬあたいし 我(わ)んにんかい
残(ぬく)とんで言ゅんな いぇー童
あんせおじさん
三合びんし不足(ふすく)やみせぇーら
一升(いっす)びん我(わ)んに 呉(くぃ)みせーみ 』
(やあ、おじさん。 こんにちわ、おじさん。
ゆうべ飲んでた三合びんは残っているかい。
残っていたら俺にも分けてくれよ。
おいおい小僧、やあ小僧。
三合びんなぞの酒でワシに残っているか、聞くのかい?
やい小僧。
じゃあ、おじさん。
三合びんで足りないのだったら、一升びんを俺におくれよ。)
悲しい『ハイサイおじさん』のモデル
この歌の主人公である『ハイサイおじさん』は陽気は酔っぱらいの、いかにも近所に住んでいそうなよくいるおじさんと、20才代そこそこの子供(青年)の楽しい掛け合いの唄に思えてしまう。
実はこの歌には実在したモデルのおじさんがいる。喜納昌吉がまだコザ市(現沖縄市)の中学生であったころ近所であったショッキングな話がもとになっている。
昌吉少年の近所に住んでいたとある一家。戦争の混乱の中で、精神を病んでしまった母親が7歳の娘の首をまな板の上で斧で斬り落としてしまうという事件が起こる。
帰宅した父親は毛布の先に出ている娘の足を触ってその冷たさに驚き、毛布をめくると首のない娘が中にあった。
母親は切り落とした娘の頭を釜で煮て食べようとし、最後には自殺してしまった。
のこされた父親はこの事件のせいで村八部にされてしまう。次第に酒に溺れるようになり、交友のあった喜納家に頻繁に来ては酒をせびるようになった。古い民謡を口ずさむそのおじさんと「ハイサイ」と声を交わし、酒を恐る恐るあげる中学生の昌吉。
そんなことを繰り返しているうちに昌吉少年の頭の中に流れ出して出来上がったメロディがこの『ハイサイおじさん』だった。
沖縄の唄が肝(ちむ)に効く理由
一読すると、昌吉少年は、とても恐ろしい体験をしたのだろうと思ってしまう。
『ハイサイ』はうちなんちゅー言葉で「こんにちは」という挨拶だ。そう、この歌の出だしはいつも昌吉少年から「変なおじさん」への語りかけで始まっている。声をかけるのはおじさんのほうではなく、少年からなのだ。
これに気が付くと、昌吉少年のやさしさが次第に分かってくる。曲中の掛け合いも酔っぱらいをからかっているだけのようで、そうではないことが分かる。
3番、4番の歌詞ではおじさんのハゲやヒゲを指摘しながらも、昌吉少年はそれを笑ってはいない。おじさんもいたって真面目に反論する。
2番では昌吉少年は「俺もいい齢になったから、おじさんの娘を嫁にくれよ」とまで話かけている。その娘は実の母親に首を斬られてもういこの世にはいないのだが、昌吉少年もおじさんも、あたかもその娘が生きて元気かのようにやりとりをする。
昌吉少年は決しておじさんを不憫だ、不幸だと思わず一人の人間として対話している。
志村さんの演じた『変なおじさん』のように少し変わったおじさんたちはかつて、あちらこちらで普通に見かけたような気がする。今、そのような人たちはどこに行ってしまったのだろうか。考えもなく周りの人たちからコンクリートの建物の中に押し込まれて外との接点を閉ざされ、「もう安心だからね」と孤独を強要されていないだろうか。
コロナ禍では「マスクをすぐに外してしまうから」というだけで外へ連れ出せなくなった人たちが多くいると聞く。もちろん外部からの感染を防ぐ目的もあるだろうが、社会がこのような人たちに対して寛容の心を持ち合わせなくなって久しい気がする。
昌吉少年のいたあの時代の沖縄は、皆で「戦争」という体験を乗り越えた独特の社会の連帯感があって、「変なおじさん」たちもその仲間として受け入れられていたようだ。
戦争という体験を乗り越えてきた沖縄で生まれた唄には何とも言えない独特の響きがあって心に訴えかけてくる。三線の美しい音色にのせて流れてくるメロディーは独特の沖縄音階もあって、存分に肝(ちむ)に効くー 癒しの効果は抜群だ。
沖縄には本土にはない、音楽を通じて「変なおじさん」を受け入れる寛容さが残っている。
戦争のような悲惨な体験をしないと寛容の心が育たないような世の中になってしまったとは思いたくないのだが。
異質を『個性』と認める余裕を持つために音楽が有効なのかどうか、はっきりとは分からないのだけれど、試しに沖縄三線を手に取って見るのもよい。
いい音楽が聞こえて来れば誰でも笑いたくなる。笑ったお互いを見れば、小さな仲間意識が芽生えるはず。
変なおじさんに出会っても誰もが「ハイサイ、おじさん」と声をかけにっこり笑える世の中であってほしいものだ。